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ぼく その41

 ぼくがドアを引こうとする前に、やはりコハクさんは顔をだしてきた。どうも、とぼくはすこしだけ顎を引いた。ドアの内からするりと延びてくる風が、外とおなじ匂いだった。どうやら窓は開放されているらしい。コハクさんはいつもどおりの動きのない表情のまま、しばらくぼくの顔を見つめていた。コハクさんの瞳が一部、白色に覆われていた。ぼくの髪の毛だ。ぼくはコハクさんを見つめつづけた。コハクさんも、ぼくの眼をじっと見すえていた。けれどぼくは目を逸らさなかった。自分の瞳に据わったこの勇気を、覚悟を、彼女にみつめさせるために。コハクさんは神妙な顔つきのまま、ぼくのこの様子を察したようだった。

「見つけられたのね」そう言って彼女は、はじめてにっこりと微笑んだ。

「はい」その柔和なほころびに、ぼくは頬を赤らめることとなった。動作がはげしく枯渇していたその肌でつくられた微笑みからは、ぼくが手で触れることができそうなくらいの克明な優しさが確かにたたずんでいたのだ。 

 中に入って、とコハクさんはぼくを部屋にまねいた。さきに室内へと体勢をむけた際にみえた彼女の虹彩は、ぼんやりとたゆたっているような気がした。なぜコハクさんがそんな瞳をしていたのか。それはぼくが玄関でスニーカーを脱ぐときあたりで理解できた。そして、おもわず嬉しさから笑みが洩れた。ぼくの隣で立ちつくしていたスノードロップの花が、窓からさすらってきた風に妥協するみたいにおもむろに揺れた。ぼくは感激した。コハクさんは、ぼくのために泣きそうになっているのだ。

 「あなたなら、見つけられると思っていた」ぼくはカーペットの上に腰をおろし、キッチンでコーヒーを淹れているコハクさんのうしろ姿を見つめていた。コーヒーをカップに注いでいるコハクさんの背中からは、ぼくのために嬉しくて泣きそうになっている声が言葉をつなげて聴こえた。「あなたを信じてよかった、と。いまなら言えるわ」ぼくはすこし照れくさくなって、頭部をよわく掻いた。皿にコーヒーカップがのる音がした。コーヒー、彼女はぼくにふり向いてたずねた。「飲むでしょ?」

「はい」と、ぼくは肯いた。

 ぼくの前に差しだされたコーヒーカップからは、やわらかな湯気がただよっていた。ぼくはそれを持って、ゆっくり口元に縁をあてた。躊躇はなかった。飲める気がしたのだ。苦手なコーヒーすらも。すこしだけ口に含まれたコーヒーはとても苦く、喉におもさを与えてくるようだけれど、悪くなかった。悪く、なかった。ひらかれた窓は、風を部屋へすいこんでいった。あたらしい青がもたらした白い雲はながれ、そして千切れて、溶けていった。コーヒーの水面をのぞくと、当然のようにぼくの顔がうつった。いつか列車の車窓からみたときみたいに、ぼくの顔はうらぶれてはいない。遠くの夜に捨ててきたまま忘れてしまったものを、再び見つけだした今のぼくの顔は、うらぶれてなどいないだろう。ぼくは、笑っていた。コーヒーにうつるぼくの髪が、黒かったから。

「霧を、抜けられる?」とコハクさんは訊ねてきた。

「うん。抜けられる」ぼくはつよい意思で肯定した。

「やっぱり……」コハクさんはぼくを見つめたまま、すこし言葉にスペースを空けた。「あなたは強い人間よ」

 ぼくは羽織っていたチェスターコートのポケットに手を挿入して、中に入っているものに触れて確かめた。コートのポケットには、君が残していったハサミがある。あれから君の気配はかんじない。きっと、ぼくの帰りを待っていることだろう。「コハクさん」とぼくは言った。なにかしら、とコハクさんは嬉しそうにぼくに耳を傾けた。


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