ぼく その40
ぼくらに追いついた光が、もつれていた空をほぐした。ゆっくりと身体に隙間をみせはじめた蕾を、光はほそく白い指でつまんだ。やさしく心を落ち着かせてくれる言葉をささやきながら、花びらの一枚をおもむろにめくっていく。すこしずつ、花びらは寝かされていく。水面にうつる影にも、それはこだまされる。花に笑いかける光のながい髪が、寝かされた花びらのうえに落ちる。光は丁寧に花びらの耳元でそそのかし、すこしずつ肌をあらわにさせていく。しろく妖艶な光は、子供たちに絵本を読みきかせるようなやさしい声色で街を唄っていた。それから連鎖的に、蓮たちは服をぬぎ捨てていった。裸になった蓮たちは気持ちよさそうに夜明けをたたえ、背中をさする風をもてあました。蓮は互いにわらいあいながら足をひらき、胸をあけ、手をひろげ、冴えた空気をたくわえこんでいった。
「綺麗だ」ぼくはこの感嘆してしまうような光景に、なにか言葉をささげたくなった。けれど、言葉はとぼしい知識から染みでた滴のようなものしか生まれなかった。それでも構わないとぼくは思う。だから、ぼくは簡単な言葉だけをつぶやいた。
「ええ」とハナミはうなずいた。「彼たちはこの一瞬のために生きているのよ。またしばらく経過すれば、苦しみ――泥の吸収へともどっていく。たったこの瞬間のためだけによ。いつもどおりの朝を知りたくて、また夜を耐えるの。そんなことを、四回くらい繰りかえす。そして死ぬ。花びらを手ばなしていく」
「いつもどおりの朝がこなくなるのを、蓮たちはどう思うのかな」とぼくは死んでしまった蓮のことを思って言った。
「わからないわ。切なくなるのかもしれないし、寛容な心でそれも認めてしまうのかもしれない。だって、もがいたって変えられないものはあるもの」
蓮たちは無口なまま、またしぼんでいくその時まで朝とたわむれていた。
「そんな蓮の花を、お釈迦さまは人間に喩えたの」
「僕らは、……蓮の花だという風に」
「そう。わたしたちは蓮の花なの。いまはまだ閉じているけれど、いつか開花する。いまは泥をたくわえる時期。そう考えるの。わたしいまも朝がくるのか不安になることがあるけれど、朝がやってくる度に思うようになったわ。「朝は必ずくる」んだって」
ぼくは彼女の話をきいて、心のどこかに付着していた埃がとれるような感覚をえた。ぼくらはやっぱり似ているのかもしれない、そう思えたのだ。「……ぼくも」とぼくは言った。
「え」
「ぼくもだ。ぼくも今まで、自分に明日なんてないと思っていた。逃げるだけのぼくに、明日なんて来ないって。いつまでも「今日」のままなんだって。ぼくは、とどまっていたんだ。開き直って、雨を拒んで、季節から逃げて。苦しむのが嫌で」
蓮の花がちいさく息をするように揺れた。ぼくの左手に、ハナミの右手をかんじた。朝が構築されていった。鳥が鳴いていた。「ハナミに出会えて、ほんとうに良かった」ぼくはそう言った。ハナミは「なによそれ」とはにかみながら返して、ぼくの左手を掴んできた。すこしだけ、と彼女は照れたまま呟いた。ぼくはちらりとハナミの横顔をうかがった。赤く色づいた頬のとなりを、「さよなら」と告げたような風がながれた。ながい前髪がゆれ、隠れていた右目があらわになった。ぼくらは、手を繋いだ。
「そろそろ、帰ろうと思う」ぼくはそう言った。
「ええ、あなたならできるわ。あなたは弱くなんかない。あなたは十分強いもの」
「この街にきた理由が、わかった気がするよ」
「……そう。大切なものに気づけたあなたなら、きっと霧を抜けられる。そんなあなたと出会えたわたしも、きっと」
「ぼくらには、もう夜の向こうは見えているよ」
「ええ」
風と鳥が、鳴いた。ぼくは忘れていたものを思いだした。そしてすでにそれを、見つけていることにも気づいた。ぼくが失くしていたものは、もうぼくの中にある。まるで服にこびりついたシミみたいに、だ。
「ありがとう」繋いでいた手が、離れる。
「うん」ほどかれた彼女の手はそのまま落ちてしまう。
そしてぼくは振りかえる。ハナミはまだ池の蓮の花たちをながめたまま、表情をみせないでいる。ふと足元をみると、蓮華草とともに、金盞花がさいていた。ハナミのうしろ姿には、ぼくは目をやらない。風が彼女のスカートをゆらして、またあの白い太ももをまたたかせているのかもしれない。ハナミがどんな顔をしているのか、ぼくは目をやらない。笑っているのかもしれないし、泣いているのかもしれない。ぼくは確認しない。歩きだす。まだ流れている風はなんとぼくらに告げているのか。その言葉も変わっていない。
きっと、「さよなら」だ。




