ぼく その38
父さんは眠っている。障子に指で穴をあけて、そこから覗きこんできたような光が夜明けのまにまに浮かんでいた。まだ街は、二十八時をまわったばかりのような時間だ。布団をはらって起きあがると、ぼくはそれとなく腹の傷の箇所に目をやってみた。あれからも傷は開くことはなく、なにも異常はないままだ。なのに、血のシミは消えなかった。着替えたはずなのに、傷もないはずなのに、ぼくのTシャツには血がにじんでシミをつくっていた。その部分を触れてみるとシミはすでに乾ききっていて、生地とおなじ感触となっている。しかたなくぼくはTシャツを脱ぎ、あたらしいTシャツをとりだした。それからぼくは紙にハナミの家にいくということを記し、それをダイニングテーブルに置いた。そして父さんが起きないようなるべく足音を殺し、玄関をでた。なずむことなく着々と朝までの脈絡をたどっている夜明けを、空は街中にしらせている。さらに夜明けを急かすようにふいた風に背中をおされて、ぼくは早歩きした。ぼくは向かった。ハナミの家へと。ハナミはぼくを待っている。約束をしたから、待っている。ぼくはきのうの夕焼けの欠片を抱きかかえて、ハナミの家へむかった。
束となって建物のあいまから押し寄せられた花たちが、ぼくの目に入りこむ。それをみてぼくはすこし笑みをこぼし、歩幅を急かした。青をほのめかしだした空を無視して咲きほこった花たちが、ハナミの方へとぼくを招いてくれる。ぼくは階段に足をかけ、庭へとむかう。庭との間隔がちぢんでいき、うっすらと庭にいる花たちの顔もみえてくる。やがて風が揺するピンクのスカートが目にはいる。夕暮れにとりのこされたような紅い髪が、まだくらい藍色にすこしだけ触れる。ぼくはつい微笑んで、声をだす。「おはよ」
すると風が縒れて、ワンピーススカートが揺れ方を変えた。ハナミはぼくの方へ顔をむけてきて、「おはよう」とにっこり笑って言ってくれた。「待った、かな?」「ううん、まだ蓮も開花していないわ」そう聴いてぼくはほっとした。まだ窓をあけず外をけげんする蓮たちが波及した池のほとりにハナミはたっていて、ぼくもとなりに肩をならべた。「もうすぐ、花びらを興すわ」まるでハナミはきのうの夕暮れからずっとこの場所にいるかのような調子だった。どうしてそう思ったのかは、説明できなかった。夜明けまえの下でぼくたちは、しばらく言葉を要さなかった。気まぐれに蓮の葉がうごめきを見せ、ほとりの方へと波紋を手ばなした。葉はうなずくように、蕾たちになにか合図をおくるように、ぼくらに気づかせるように、そっと動いたのだ。「……あ」とぼくは声を洩らした。
「花びらが――」
青みかかる空の底から、滲みだした光がぼくらをとおり抜いた。




