ボク その12
母さんはコーヒーが注がれたマグカップをダイニングテーブルにふたつ置いた。ボクは片方を手にとり、さっそく一口飲んだ。母さんはボクの向かいへと腰をおろし、じっとボクの目を見つめた。ボクは瞼をとじ、マグカップをテーブルにゆっくり置いた。
「行く、ってどこに行くの」
「行かなきゃならない場所に、だよ」ボクは舌打ちをこぼしそうになるのを堪える。
「それはどこなの」
「母さんの知らない場所だよ」
母さんは会話をそこで中断させた。ハサミでぷつん、と糸を切るみたいに。マグカップの取っ手に指をまわして、マグカップの底がういたと同時くらいに、また母さんがボクに訊ねてきた。
「……そろそろ、教えてくれないかしら」
「教えたところで、母さんは「難しい」や「わからない」と言うんだ」また舌打ちをしそうになる。ボクは堪えた。
「ねえ、なにをそんなに焦っているの?」
つぎはボクが会話を中断させた。荒々しく受話器をおいたみたいに。母さんがボクにした質問の隣には、沈黙しかなかった。母さんはコーヒーをすこし飲んだ。
「……ボクが母さんに教えるものなんて、なにもないよ」
「あるわよ。たくさんあるわ。あなたがこの家にきて、何日か経過したわ。けれど私はまだなにも「わからない」ままよ」
「だから話しただろう。「わからない」や「難しい」で片づけるから中途半端なままで終るんだ。ボクはそう話したはずだよ。答えなんてないんだ」
「ねえ教えて。あなたは、誰なの?」
ボクは口を噤んだ。母さんはマグカップをそっとテーブルに置いて、ボクの目をじっと見つめてきた。ボクは口元をかくしていたマグカップを降ろし、母さんと同じようにテーブルに置いた。マグカップの底が単色なかわいた音をたてた。「……ボクは、ボクだよ」
「え」母さんは声をこぼした。
「ボクは、ボクなんだよ。一つになれなかったから、二つになった。その片方がボクだよ。その二つというのは、とても荒々しく切断されたんだ。無理やり噛み千切ったくらいに、出鱈目な避け方をしたんだ。だから、その二つはどちらも違うものでは補えない。どちらも正確に合致するものなんて一つしかないから。出鱈目な裂け方をしたものは、もう片方の出鱈目な避け方をしたやつじゃないと完成しないんだよ。だからボクはもう片方をつれもどす。ボクの半分がいる場所へ、いくんだ。いままでは待っているだけだった。そうすればいつか半分の方も帰ってくると思っていた。逃げることで大切なものに気づけて、前向きになれると思っていた。けれど、彼は弱いんだ。コウトという少年は、弱いんだ。その逃げこんだ場所でも、逃げることを止めないんだ。その状況に、甘えることにしてしまったんだ。それは、「勇気」を忘れてきたから。彼は逃げこむ際に、「勇気」というものを忘れてしまったんだ。だから甘えてしまう。大切なことにも気づけず、前向きにもなれない。すぐ開き直って、気に入らなければ逃げるんだ。そんな彼を待っていても、来ないとボクは思ったんだ。待っているだけじゃ駄目だ。だから、ボクの方から迎えに行かなくちゃ……。それがさらに苦しみになろうとしても。もがき苦しまなければいけなくても。それでも、こうするしか無いんだとボクは思った。だから、行かなくちゃいけない。――――母さん、お世話になったよ。母さんが淹れてくれたコーヒー、ボクはとても好きだ。けれど、深く味わうことはボクだけじゃできない。コーヒーを深く味わうことですら、片方だけじゃできないんだ。季節に立ち向かうことなんて、到底できない。もう、時間がない。母さん、あなたは前を見つめている。やがてくる季節に、向き合っている。でも、あなたが見つめているだけじゃ意味がないんだ。君がいないと……まるで意味がない」
母さんは神妙な顔をして、ずっとボクの話に耳をかたむけていた。そしてボクがひとしきり話をし終えると、次はボクの顔のほうへと視線をたどらせ、北極星みたいに眼差しを固定した。すぅ、と息を吸って、吐くのと同時にボクに言った。「無理やり連れ戻そうと、しているのね。あなたは」
ボクはすぐ答えた。「そうだよ。無理やりにでも、強制にでも、ボクは彼を連れもどす」
「それで、うまくいくの?」




