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ぼく その37

「たしか『蜘蛛の糸』は……、極悪人の男――名前は忘れてしまった。変な名前だったことは覚えているけれど――が主人公の話なんだ。泥棒だったかは覚えていないけれど、その男は地獄にいるんだ。苦しんでいるんだよ。罰をうけてる。そんな男の苦しむ姿をね、空からお釈迦さまがながめているんだ。お釈迦さまは天国だかどこかも忘れたけれど、蓮の花がうかんだ池から、その男をながめていたんだ。そしてね、蜘蛛の糸をたらすんだよ。蓮の間から、するりとね。そして男はその蜘蛛の糸につかまり、引っ張りあげてもらおうとするんだ」

「そんな話だったのね。それで、その男はどうなったの?」

「詳しくは忘れてしまった。本当に曖昧なんだ。でも、たしか上れなかった気がする。たしか途中で糸が切れたんだ。どうしてだったかな」ぼくは砂を手の平ではらいながら、うもれてしまっている記憶をとりだそうとした。けれど、これ以上は思いだせなかった。

「そうなのね。知らなかったわ。芥川龍之介は知っていたのに」

「たしかそんな話だったとおもう。曖昧でごめん」

「いいのよ。――――でも、その話、なんだか今のわたしたちとも重ねられるんじゃないかしら」

「え」ぼくはハナミの顔をみた。「どういうこと?」

「詳しくは読んでいないからわからないけれど。でも、解釈のしかた次第ではわたしたちとも重ねられると思うわ。地獄でくるしんでいる男って、つまりわたしたちじゃないかしら。……ごめんなさい。でもそう思ったの」

「いや、そうかもしれない」とぼくはマグカップを両手でつつむように持ちながら言った。たしかに、そうかもしれない。「なら、お釈迦さまとは何だろう?」

「新しい季節」と、ハナミは言った。

 新しい季節。ぼくはハナミの言葉をゆっくり、唾を混じらせてのみこんだ。ハナミの言葉は、おしこめられた脈絡にしたがって流れていった。「なら、蜘蛛の糸とは、なんのことを言っているんだろう」ぼくは訊ねた。いや、すでにぼくは分かっていた。それはきっとハナミとおなじ回答なのだと思った。

 「蜘蛛の糸……そうね」ハナミはそう訊かれて、その回答を言った。その言葉をはいた。その言葉にぼくは「なるほど」と言えたし、釈然ともした。ぼくの窪みに、かちりと嵌った音がした。そして、それはぼくと同じ答えだった。

 ……コーヒー、とハナミはぼくの持つマグカップをみて呟いた。「飲まないの?」ぼくはあっと思ってすぐに「飲むよ、もちろん」と返した。けれどなかなか口元までマグカップを運ぶことができなかった。ぼくはふと、ハナミもコーヒーに手をつけていないことに気がついた。「ハナミは飲まないの?」そう訊ねるとハナミはすこし頬が赤くなり、ぼくから顔をそむけた。いささかの沈黙ができあがり、そしてすぐにハナミの苦笑がそれを壊した。「ごめんなさい。実はわたしもコーヒー苦手なのよね」

 ぼくたちは笑い合った。二人をつつむいまの空気は、とても温かいものだと感じた。夕暮れはじめた光がながれ、二人の空気をてらし、そっとこの街を色づけた。いつかハナミにおしえてもらった蓮華草の花が、ぼくらの間で揺れていた。池の蓮の花たちが開花しだすころに、また来るよとぼくらは約束してわかれた。おもわず洩れたぼくのほころびはオレンジ色になって、二人でかわした約束もオレンジ色だった。


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