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ぼく その36

 前を見つめなさい。未来は見えないわけじゃない。コハクさんがしてくれたその話や、その言葉は、ぼくの窪みにかちりと嵌るものだと思った。かちり、と音をたててそれらは当てはまる。やさしくのばされた手の平が、ぼくの背中をそっと押してくれるみたいだ。ドアがひらき、ハナミがマグカップをふたつ持って庭にでてきたのはそのときだった。

「味の自信はないわ。でも、のんで」

「ありがとう」ぼくは彼女からマグカップをうけとり、夕日の色とまじわったコーヒーの水面をのぞいた。「いただくよ」

 ハナミもマグカップを片手にもって、ぼくのとなりに腰をおろした。マグカップからは夕日にほほえみかける丸い湯気がもれていた。蓮の花をながめながらぼくは、今朝みた夢のことをおもいだした。内容すらもさっぱりと忘れてしまった、一瞬にして古びたあの夢のことを。「……蜘蛛の糸」

「え?」とハナミはぼくの独り言を拾った。「どうしたの?」

「……思い出した。『蜘蛛の糸』だ。芥川龍之介の、『蜘蛛の糸』」

「『蜘蛛の糸』……?」

「そう、『蜘蛛の糸』。芥川龍之介の短編小説だよ。知っている?」

「ごめんなさい。わからないわ。芥川龍之介という小説家は知っているけれど。その『蜘蛛の糸』という作品はしらない」

「そうなんだ。いや、別にかまわないよ。その話にね、蓮の花が登場するんだ。それと、お釈迦さま。きのう君がぼくに蓮の花の比喩――たしかメタファーと言ったかな――の話をしてくれたときからずっと引っかかっていたんだ。どこか、その話とぼくの記憶がはさまるものがあったんだ。それをいま思い出したんだ。『蜘蛛の糸』だ」

 ぼくは、自分の部屋の本棚にしまった『蜘蛛の糸』の小説をおもいだした。たしか表紙は深いみどり色の背景に、あまたのしろい蜘蛛の巣がはられ、そのすきまで一匹の蜘蛛が垂れさがっているイラストだ。『蜘蛛の糸』をはじめて読んだのは、大分前だったとおもう。それまではあまり印象に残った作品ではなかったから、記憶も薄れていた。たしか、十ページもみたないとても短い話だったおぼえがある。「どんなお話なの? その『蜘蛛の糸』って」とハナミは訊ねてきた。ぼくは『蜘蛛の糸』の話を、できるかぎり思い出すことに努めた。再読もせずに本棚にしまったくらいに、思い入れがあまりない作品だったから、(ぼくは『蜘蛛の糸』を読んだとき、たしかあまり理解できていなかった気がする。ただ単純に、文章をなぞるようにだけ読んで、解釈もなにもかんじずに本を閉じたのだ)ところどころ忘れてしまった箇所もあるかもしれない。けれどぼくは、今になって『蜘蛛の糸』を思い出したのだ。そのことに意味があるのだと思い、訥々ながらにぼくは物語の説明をした。


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