ぼく その35
「ぼくには母さんしかいないんだ。父さんは知らない。だから母さんの話しかできないけれど、いいかな」
「ええ」とハナミはうなずいた。「ぜひ、聞かせて」
「うん……、母さんはいつもコーヒーをのんでいる人だった。暇さえあれば、必ずコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで、砂糖もミルクも入れずにそれをのんでいた。本当にコーヒーが好きなんだ。日常の時間に隙間があれば、それをコーヒーで埋めるような人なんだ。けれどね、ぼくはコーヒーが苦手なんだ。なにが美味しいのかわからなかったけれど、なぜかコーヒーをのんでいる母さんをみていると落ち着いたりしたんだ。コーヒーは嫌いだけど、母さんの口から仄かにするコーヒーの香りは好きだった」
「コーヒー……」とハナミは呟いた。「いいわね。なんだか」
「そうかな」
「ねえコウトくん。コーヒーを呑みましょう。なんだか呑みたくなったわ」
「でもぼく、コーヒーが嫌い――」
「いいじゃない。わたしが呑みたいのよ。あなたと。蓮の花をながめながら。わたしが淹れるわ」
そう言うと、ハナミはベンチから立ちあがって家のなかへとコーヒーを淹れにいった。そのあいだぼくは、母さんのことを思い出していた。母さんは、いま、なにをしているのだろう。ぼくのことを、どう思っているのだろう。コーヒーをすこしずつ口に含んでいく母さんの姿が、想像できた。あの家で、ダイニングテーブルの椅子に背をあずけて、わずかな音だけをこぼしながら、とても静かな空間でコーヒーをのむ母の姿が、ぼくの脳漿に克明にえがきうつされた。ぼくだけとなった庭には、夕方の色になじんだ風がしずかに街と孤独について語っていた。膝をだいて固まったままの蓮の肌が、ほんのすこしオレンジを佩びた。まるで痛いくらいの夕日が青の底を、ひっそりと覗きはじめた。うすくなった青空にまぶされたオレンジ色には、ねずみ色の雲もかざられている。夕日はぼくの肌をそめ、真っ白な髪すらもその色にしてしまう。いつもしていた視線の気配はきえていて、肩をくんで共にゆれる花と草たちが、まるでこの空をあおぐように。ぼくは、泣きたくなった。誰かに、抱きしめられたくなった。頭を、なでてもらいたかった。温もりから声をあげて泣いて、そして、屈託なく笑いたくなった。あのとき開花した一輪の蓮の花みたいに、ぼくは幸せそうに笑いたかった。




