ぼく その34
「血が滲んでいるじゃない。包帯をとりかえましょう」
「ありがとう」
ハナミはあたらしい包帯をたずさえて、ぼくに近づいてきた。ベッドに片足をおよばせ、ぼくの身体に触れてきた。たまに彼女の横髪がはだかのぼくの肩をなでてきた。横にふりむけばすぐそこにハナミの顔がある。ハナミはぼくの腹に手をまわして、包帯のテープをとろうとしていた。妙に呼吸がみだれてしまう自分がいた。ぼくはいささか、緊張していた。ハナミは手馴れたように包帯をはずしていった。その間もしばらくぼくは息を殺して、ハナミがはなれるのを待っていた。「あら?」と彼女が声をもらした。それでぼくは詰め殺していた息が出鱈目にはきだされ、すこし噎せることとなった。すぐに落ち着いて、「どうしたの?」とたずねる。「傷が消えているの」とハナミは言った。「え?」
「傷が消えているのよ。血だけが滲んでいる」
「傷が消えている?」
ぼくは自身の腹部に目をやった。ガーゼがとられてあらわになった傷口は、たしかに、修復されていた。まるで駅の外でみたおなじ容姿をしたぼくみたいに、刺されたということは嘘になっていた。そこには不自然な血のにじみだけが残っていた。「どういうことかしら」「ぼくにもわからないよ」しばらくぼくらは消失した傷をみつめていた。ためしに指先で触れてみたけれど、するどい痛みなどは感じなかった。ただ肌に付着したまわりの血痕がぼくに違和感をあたえていた。ハナミはタオルを濡らして絞り、血の跡をぬぐってくれた。そのやさしい手の仕草にぼくはまた緊張し、息を殺した。
「ありがとう」とぼくはもういちど礼を述べた。
「いいのよ。それよりなにか飲みましょう。わたしが何か飲みたい気分なの」
「わかったよ」
「あなたは今、どんな気分?」
「外に出たい。花を見たいんだ。蓮の花を」
「わかったわ。行きましょう」
ぼくとハナミは庭のベンチに腰をおろし、また昨日とおなじ空の色と、また昨日とおなじ池の蓮をながめた。蓮の花はあたりまえだけれど、蕾のままだった。所々で花びらをうしなったものもあった。「あなたが来ていないときに、余命が尽きてしまったのがなん輪かあるの。悲しいわ。あれだけ美しいのに、四日間だけなんて」そうだね、とぼくは言いながら死んだものも含め、まだ身をつぐませている蓮たちをながめていた。池の水面は夕日をたくわえはじめた空をうつしている。
「おじいちゃんはどこにいるの?」
「買い物にいくと言っていたわ」
「お礼を言いたいな。助けてくれたんだ」
そうね。ハナミは言った。まるで考え事をしていたら思わず言葉が声となってこぼれたような調子の声だった。気になって彼女のほうへ目をやると、ハナミはまばたきもせずに蓮の花を漠然とながめていた。「どうしたの?」とぼくは訊いた。具合が悪いのかい? そう訊ねるとはっとハナミの意識がもどった。「いいえ、なんでもないわ。すこし思い出しちゃったの。両親のことを」
「ハナミの両親は……」
「ごめんなさい。あまり言いたくないの。でも言えるのは、わたしは母さんも父さんも大好きだったわ。とても大好きだった。それだけね」そう言うとまたハナミの瞳は光がぶれたようになった。ぼくはそれ以上、ハナミの両親のことについて言及することをやめた。しばらくまた蓮やその他の花たちをながめることに耽った。ほとんど名前なんて知らない花だけれど、ぼくにはそれで構わなかった。名前を知らなければいけないことなんて無いと思った。名前を知らなくても、美しいものは美しいし、感じるものは感じるのだ。なにかを話そう、とぼくは思った。




