ボク その10
「もうひとつ、君に話そう」と彼はいった。
「どうぞ」とボクはかえした。
「君たちは苦しんでいる、と我輩は言ったね。そして、それが悪いことじゃない、とも言った。そう、苦しむことが悪いことじゃないんだ。むしろ、苦しまなければいけない。なぜ生きているのか、人生とは何なのか、その見解としても我輩はそう答えるだろう。「苦しむため」だと。苦しむために人は生きているのだ。君たちに伝えよう。喜びよりも、苦しみを選びなさい」
「喜びよりも、苦しみを選ぶ」
「ああそうだ。君たちはあたらしい自由を得ようとしている。そのためには苦しみなさい――いや、それまでの自由を捨てなさい。自由は自由を捨てて得るのだ。欲をだしてしまえば終わりだ。欲をだした途端、君たちを吊りあげていた糸は途切れる。ぷつん、と音をたててね。自由を捨てなさい。そうすれば蜘蛛は糸をたらしてくれる。甘えを出すな。そうすれば蜘蛛の糸はきれない。それに――」
はっ、とした。気がつくと、ボクの周りにはおなじようにもがき苦しむ人たちの影がいたのだ。空白となっていた椅子にそれらは腰をおろし、机に身をはわせながらひっしに苦しみから耐えていた。教卓から誰かの姿はきえていて、ボクは机にしがみついてのたうち回る影たちのなかに紛れていた。うめき声があちこちから耳へと渉ってきた。ボクは混乱した。外はもう深い夜となり、影たちのもがきはさらに激しくなった。ボクはしばらく身動きがとれなかった。疾走する思想が、行動にうつすまでの過程までとどかなかったのだ。声が教室の壁ににじみ、ボクは耳をふさいでしまう。足ががたがたと震えはじめ、膝をなんども拳でたたきつけた。心臓がさけびだして、ボクは思わずはしりだしてしまった。教室からとびだし、涙をこらえて廊下をかけぬけた。まだボクは不十分だった。バランスをくずしながらも走ることはやめなかった。家に置いてきたハサミのことを思いだす。なぜボクはハサミを忘れてしまったのだ。自分を問い詰めようとする。離れていくことがわかる。離れていく。蜘蛛の糸から。だめだ、戻らなければ。けれど震える足は逃げようとしたままで、まだボクだけでは無理なのだと思いしった。
君がいなければ、ボクも弱いままなのだ。ボクたちは「分裂」している。とても荒く、複雑に、出鱈目な裂かれかたをして「分裂」しているのだ。




