ボク その8
その日もやがて染みだす茜色に、ボクは家をでた。君の持っている服はどれもボクにぴったりだった。ボクはなにの予定もないけれど、外に出たくなったのだ。君の街にたいする興味もある。電線に足をのせた何羽かのカラスがボクをみつけるやすぐにたかい声で鳴き、背中をさしてきた夕日に影がひっぱられていた。公園であそぶ子供たちの声が、あわく聴こえてきた。住宅地をぬけると、坂道がある。ボクはその坂道をくだり、商店街のほうへと向かった。商店街には、いろいろな店舗が両脇にならんでいて、人の声がいききしている。コロッケを頬張るちいさな男の子や、母親と手をつないであるく女の子、やさしく見守るおばさん。ボクはまだくだり終えていない坂道の途中から、その光景を俯瞰した。自分の頬にほころびがうかんだ気がした。また歩きはじめるころには、ボクが外出した理由がわかった。どうやらボクは、ある場所へと向かおうとしていた。
ボクが向かおうとしていた場所はすぐに到着した。商店街をぬければ、すぐにみつかった。夕焼けがうしろめたそうに照らしたそれは、学校だった。ボクは真正面にたって、その校門をみつめた。それからゆっくり、息をはいた。のみこんだ唾が痛かった。その痛みを知りたくて、ぼくは唾をのんだのだ。心拍が誇張されていくのがわかった。風に蹴られた砂のような雲が、静謐がつみかさなった夕焼けのまえを横断している。あの雲の切れ目がゆっくりとさけていって、「分裂」されるまえに、ボクは足を踏みだした。
校舎にはいると、まず下駄箱がならんでいた。ボクの背丈とおなじくらいの高さの下駄箱がいくつも、しつられていた。ボクはひとつ靴をひきずりだし、履いた。静かだ、とボクはおもった。階段をのぼると、廊下につながっていて、傍らのわきには教室がならんでいた。ボクはいくつかの教室のなかのひとつに入り、ぐるりと室内をみわたした。空が窓にうそぶいた夕日のわずかな子供は、室内をみたす机や椅子のうえをすべりよっていた。ボクは教室にならぶそれらを、ゆっくりと歩きながら触れていった。机のうえに散らかった消しゴムの滓を、ボクは指でこねくってみたりした。別にそのことに深い意味があるわけではないけれど。教室のなかは静寂がたれこめたあの夕日と同じようにただよっていて、かつての賑やかさは忘却されている。ボクは窓のすぐとなりにある机の椅子をひき、腰をおろした。振りまぶしてくる夕日が、ボクの黒い髪に染みこむ。肌にもしがみついてくる。黒板には、たった数時間前の思い出でたちどまったままだった。それまでの喧騒を、黒板だけがわすれられていなかった。ボクはただひとり、窓をみてかんがえる。夕日をおしつぶそうとする青は、みるみる溶解されていき、紫にちかい色へとなりはじめる。光から逃げるようにのびた机や椅子の影は、すべて廊下のほうへと首をかたむけている。机に指を二本しのばせて、トントンと爪先でつついてみる。それにも、深い意味はないけれど。
君はいま、苦しんでいる。夕日がおしえてくれた。君とは、ボクのことだろう。そして、「君」のことでもある。夕焼けはなずむことなく身をすり減らしていく。すこしずつ暮れてゆく。そうだ、とボクは思い、そして言った。「ボクは苦しんでいる……「ぼく」は、苦しんでいるんだ」
「ああ」、と誰かが言った。誰かとは教卓のまえに立っていた。ボクはその誰かの顔が、うまく見えなかった。まだ、見えなかった。顔のわからない誰かはそのまま言いつづけた。「君たちは苦しんでいるんだ。でも、それは悪いことじゃない。わかるだろう? 君なら、わかるはずだ。あちらの「君」の帰りを待つ君なら。だから此処に――この場所に――きたのだろう?」




