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ぼく その32

 ぼくがコハクさんの家をでた頃には、すでに夜は終っていた。うつりかわった朝ですらも、その豊満な光たちはこぼれおちることに厭きてしまっているかのようだった。もうすぐ、街は昼になろうとしていたのだ。朝がうけもつ光の配分量がこかつするまで、それは残りわずかなものだということが理解できた。ぼくは涙ではれてしまった瞼を指でふれて気にし、人から顔をみられないようにしようと努めていた。遠くにあの花々の群集がみえたけれど、ぼくは寄ろうとはしなかった。ハナミとぼくは、似ていない。ハナミとぼくとは、違うのだ。ぼくは花々に背をむけて、父さんの家のほうへと体勢をむけた。

 ところで先ほどから、ひどく胸騒ぎがしていた。神経をかきむしるように動悸が胸をきざみこみ、ぼくはなにもしていないのに息切れをおこしていた。なにもしていないのに汗が垂れ、なにもしていないのに恐怖心が暗澹な建物となって、ぼくを陰のなかへと落としていた。ぼくにはその状況が理解できなかった。なぜぼくは今、息切れをしているのだろう。なぜぼくは今、汗をかいているのだろう。視界が、みょうに剣呑さを佩びていくのがわかる。歯がガタガタと震えはじめ、なぜかわからないままぼくはうごめきだす自身の膝を両手でおさえつけた。なんなのだ、これは。ぼくはぼくをおそう謎の恐怖心について、いろいろと考察してみた。もしかするとこれは、ぼくの自意識過剰ななにかが作りあげた幻覚や幻聴にちかいものじゃないだろうか。なにも根拠はないけれど、ぼくはそんな憶測をおいてみた。そうとらえることで、何者かの視線のことも説明つくような気がしたのだ。けれど、それがどうしても正解だとは思えなかった。仮にそうだったとして、どういうことからの自意識過剰なのかわからなかったからだ。あくせくとそんなことを思想している間に、気がつけば膝の震えはとてもつよいものとなっていた。ぼくに覆いかぶさる恐怖心は、一秒ごとくらいに重みを増しはじめ、ついにその正体をつかめた頃には、もう事態がおそいということに気がついていた。――気づかなかった。

 それは足音が。

  ぼくを追いかける何者かの足音が。

   そのとき、ぼくのすぐそばで止まったのだ。

 まず、ナイフが見えた。そして、それだけでぼくは混乱に陥った。絞りだされたような残滓の日差しをかくじつに拾い、にぶく光ったナイフはそのまま弧をえがくように、ぼくの方へとふりおとされた。ぼくは発せられる直前にころされた音のない悲鳴をもらし、その軌跡から間一髪でのがれた。しかしすぐにナイフの主(視線の主)は体勢をもどし、鋭利な先端をぼくにむけてきた。ぼくは身体をひねろうとしたがバランスがとれず、焦りからおもわずつんのめった。次にナイフに目をむけたころにはすでに刃はぼくの右のわき腹の寸前までやってきていた。まるで切り離された糸みたいに、そこでぼくは途切れた。


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