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ぼく その31

「コウト君。あなた本人も、もう気づいているんじゃないかしら。わかっているんでしょう? コウト君。あなたはこの状況に甘えている。前へ向こうとしていないの。そろそろ前を向かなきゃいけないときよ。もう、逃げるところなんてないの。どこにも今のあなたを歓迎する街なんてないわ。ねえコウト君、自分の足元をみてみなさい。あなたの足元にはなにがある? 歩いてきた道があり、歩いてきた靴があるはずよ。後ろに振りかえってみなさい。あなたの後ろ、それは「過去」よ。あなたが背を向けたそれらはすべて、コウト君自身の「過去」になったの。踏みしめて歩き、そして残してきた足跡がそこにはつらなっているはずよ。その足跡一つひとつを見てみなさい。その一歩ずつに、いろいろなものが生まれているでしょう? さまざまな感情が生まれ、さまざまな景色、さまざまな言葉などが。その一歩ずつに詰まっているでしょう。それらを思い出しなさい。それらはどれも、あなた自身が作りだしたものなのよ。あなたが一人で、一人で紡いでいったものなのよ。すべては思い出さなくていい。すべてを思い出すことは難しいわ。けれど、すべてを忘れるはずないでしょう? あなただけが知るそれらを、あなたすら忘れてしまうはずないでしょう? 忘れながら、思い出しながら生きなさい、コウト君。そこには幸福な思い出もあるでしょう? 自分が好きだといえるものがあるでしょう? 自分にとって誇れるものがあるでしょう? 思い出しなさい。もちろん、それが悪いものだったとしても。すべてのものは「過去」から生まれるの。目をつむりたくなる自身への嫌悪も、耳をふさぎたくなる陰鬱な記憶も。それらも思い出しなさい。そして、向き合いなさい。そして、前をみなさい。あなたが今、見えているもの。視界にはいるそれらすべては、あなたの「未来」よ。あなたの「未来」はもう、見えているの。「未来」が見えないわけ無いじゃない。そむけないで。見るの、見つめるの。そして、足を踏みだすのよ。そこに足跡をつけるの。足跡をつけると、そこはその瞬間から「過去」になり、自身への経験や思い出となって培われるもののなかに紛れていくの。そういう風に生きなさい。「過去」から――「未来」から――逃げないで。自分の嫌な部分も、嫌な傷も、ちゃんと見つめなさい。足跡からうまれてきた苦しみや悲しみ、悩みなども全部見つめなさい」コハクさんはぼくを見つめたまま、コーヒーを一口のみ、一旦はさんだ沈黙をすぐにはらってあたらしい言葉をぼくにわたした。

「自由を得るためには、それまでの自由を捨てなければいけない」

 コハクさんの瞳にうつるぼくはどんな顔をしているのだろう。ぼくはコハクさんの瞳にうつるぼくの顔をみることはできなかった。ぼくはなにも話すことはできなかった。ただ、重ねた唇がふるえていた。それがつまり涙をこらえている、ということに気づいたのはすぐだった。ぼくは窓ガラスから雨をみつめていたことを思いだす。窓ガラスの外でふりしきる雨のずっと奥に、君がたっていたことを思いだす。それからハナミが話してくれた、蓮の花のことを思いだす。蓮の花は泥みずが濃ければ濃いほど、大輪のうつくしい花びらをみせてくれるのだ。ぼくはそんな「泥」からはばかっていて、ハナミはそんな「泥」と向き合っている。そのことにぼくは劣等感をかんじ、また逃げようとしてしまうのだ。けれどこの街は、そんなぼくすらも匿ってくれる。だらしなく、怠惰で、弱いだけのぼくですらも。ぼくは、泣いていた。大きな声をあげて、ぼくは泣いていた。コハクさんはなにも言わず、ぼくの頭をなでてくれた。ぼくはそんな彼女の優しさを、素直にうれしいと思った。その一瞬だけ、「分裂」して欠陥していたところが満たされたような気になった。けれど、暫定的に満たしてくれたその優しさは、やはり一瞬のものにしかすぎなかった。涙がながれ尽きたあとも、ぼくは弱いままだったのだ。

 それでも前に向くことは、できなかったのだ。



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