ぼく その30
コハクさんはなにも言わずに、ぼくにコーヒーを差しだしてくれた。ぼくは「……ありがとうございます」とちいさく礼をのべて、苦手だけれどそれに口をつけた。しかたなく口に含んだコーヒーはやはり苦手な味をしていた。でも喉に流しこんだ。喉が渇いていたのだ。コーヒーは熱が底であつまっていて、身体をわたりきる頃にはじんわりとした温かみが充ちていた。ぼくはコーヒーカップを皿にもどし、もういちどふかく息をした。コハクさんはなにも言わずに窓のほうをみつめていた。閉まっていた窓からはローブのフードをとって、すこしだけ顔をみせてくれた朝がいた。空の黒ずみがゆっくりと後退していき、まだ熟さない未完全な群青の前兆がおびられていった。「朝がくるわ」、とようやくコハクさんは述べた。ぼくは黙っていた。「どうして、ここに逃げてきたの?」コハクさんはそんなぼくを無視して、訊ねてきた。
「逃げたかったんです。ここじゃない気がしたから。でもどこへ逃げればいいかわからなかったから、コハクさんなら何か教えてくれるかなと思って……。「前」みたいに」
そう、とコハクさんは言った。「その「前」のときに言ったはずよ? 私はあれ以上のことをあなたには言えないの。自分自身で行動しなさい、と私はたしかに言ったわ。もうなにも私からは正確なことは言えないわよ。あなたの物語で私がとうじょうする出番はもうおわったの。終了したのよ。そのほかに、なにを話せっていうのよ」
「ぼくは……」ぼくはコハクさんの言葉の意味をわからないふりをした。「ぼくは、どこへ逃げればいいですか? どこへ向かえばいいですか? 別に逃げることが悪いことじゃない、逃げても構わない、とあなたは言ってくれました。だから、逃げようと思っているんです。どうやら、ぼくが求めている場所はここじゃないみたいなんです」
「いいえ、此処よ」とコハクさんは窓のほうをみつめたまま言った。「あなたが逃げるのに最適な場所はこの街よ。此処で合っているわ。そして、もうあなたが逃げる場所はないわよ。逃げても構わない、逃げることが悪いことじゃない、たしかにそう私は言ったわ。けれど、あなたに「とにかく逃げなさい」とは言っていないわ。前を向けるようになるために、一歩下がってみることも悪くない、ということを言っただけで」
「一歩だけじゃ前へ向けなかったんです。もう一歩、ぼくは下がる必要があると思ったんです。自分はそれが正しいという判断になったんです。父さんはぼくに言ってくれました。「自分が思ったことが正解だ」と。「自分の解釈が正解だ」と。だからぼくは自分で考えて、自分であみだしたんです。まだ、逃げなくちゃ。そう思ったんです」
「あなたって馬鹿ね」とコハクさんは言った。コーヒーカップをテーブルに置いた。え、とぼくは声を洩らした。「あなたのそれは自分なりの「答え」じゃなくて、ただの「開き直り」よ」
そう言われるとぼくは無口になった。それは否めなかった。確かにそのとおりだったのだ。コハクさんは窓から目を離し、ぼくのほうへと顔をむけ、そして話しはじめた。




