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ぼく その29

 蓮の花が開花しだす頃に、ぼくは目をさました。ベッドから起きあがり、額にはびこっていた汗を手の甲でぬぐった。いやな湿潤が部屋によこたわっていた。よこたわっているというより、茂っていた。まだ外は暗く、けれどほのかな青が壁から目だけをだして覗いていた。なにか、とても陰鬱な夢をみた気がする。けれどもう忘れてしまった。どんな夢だったか、もう一片の痕跡すらのこらず忘れてしまった。ぼくは頬をいちど強くたたき、また窓のそとへ目をやった。

 次に訪れてきたのは悲しみだった。悲しみはぬぐいきれなかった汗で濡れ、すぐに乾いた。乾いたあとは、なにもない悲しみとなった。ハナミの顔がうかび、悲しみはまた濡れた。でもすぐ乾いて、ながれた涙でまた濡れた。ぼくはその悲しみを握りしめ、からまっていた前髪を手ですいた。無作為にとった服にきがえ、家からでた。「逃げよう」。「逃げよう」、と。「逃げよう」と、ぼくは思った。父さんはまだ寝ている。ほんのすこしずつ、青みを増していく夜がコハクさんの家のほうまでつらなっている。ぼくは涙をこらえて、おもい歩みで地を踏んだ。

「逃げて、どこに行くんだい?」

 君がそう訊ねてきたから、ぼくは言った。知らない、そんなこと知るわけなだろう。「まだ逃げるのかい?」そうさ、まだ逃げるのさ。君がなんといおうと、ぼくは逃げる。此処じゃダメなんだ、そう思ったから。だから逃げるんだよ。簡単なことだろう? 「まだ逃げる場所はあるのかい?」知らないよ、でもあるに決まっている。逃げればいいじゃないか。逃げることの、なにが悪い。父さんも言っていたじゃないか。逃げればいい、って。じゃあ好きなだけ逃げるさ。正しいじゃないか。間違っていること、ぼくは言っているか? 「父さんはそういう意味で言ったんじゃない」うるさい。「君はあの話の意味を理解していないんだ」うるさい! 「君はもう逃げ尽くしたんだ。そろそろ、前を向かないといけない」黙れ! 「そろそろ君は――」

 「うるさい!」ぼくは君をはらって、力いっぱいに走りだした。うるさいんだよ! 黙ってろよ! ぼくのなにを知っているんだよお前は! 消えろよ! 消えろよ! ぼくの前から消えろ! ぼくの前からさっさと「消えろよぉ!」ぼくはやみくもに走った。君の声は聴こえなくなった。夜はまだなずんでいて、朝の気配を途中のままいっこうに窺わせなかった。ぼくは息をひとつずつ塊にしてはいた。ハナミのうしろ姿が思いうかんだ。ピンク色のワンピースが風にこだまするように揺れ、そのまえには深く染みこんでいった夕焼けがよどんでいた。ハナミは前をみつめていた。夕焼けの声に耳をかたむける蓮たちも、身をつつしませながらも前をみつめている。ぼくは自暴的に街中をかけ、不細工な息をもらしていった。なんどもつんのめり、ふざけた体勢のままでも走るのをやめなかった。つまずくたびに、自分が嫌になった。君はいなくなった。君の存在が消失したかわりに、より鋭利な加減がつよまったものがあった。ぼくは苛立ちからいちど思いきり地面をけった。邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、ぼくは髪を掻きみだして乱暴に泣いた。ぼくの情けない声が涙をまじらせて作られつつある朝にひびいた。あの視線だった。何者かの視線が、また大儀的に存在をしゅちょうしてきたのだ。ハサミのようなもので、それらをぶつり、とにぶい音をたてながら切り離したいと思った。滅法に切断し、そこから噴きでる血を無抵抗にあびたいと思った。

 それからもぼくは走りつづけた。あのときのようなひどい疲れは感じなかった。ぼくはこの意識がすりきれて無くなってしまうくらいに疾走していたのだ。なにもかもから逃げたくなった。疲れを忘れるほどの意識が、この足をたたきつけてきていたのだ。ぎしぎしと軋み音をこぼしながらも瓶に凝縮されていた息が、ついに放出されてぼくはひどく噎せた。太ももに手をつけ、足元に目をおとしておさまるまで息を洩らした。殺していた息が一気にのけぞり落ちてきて、とどまっていた体温が足をとめたことをきっかけに大きく熱をひろげた。ひとしきり息をはき、ぼくは視線のまえにあるものをみつめた。ドアだった。ぼくはドアのまえに立っていた。朝はまだローブをはおって顔をかくしていた。ぼくはそのドアをノックしようと右手をあげた。手の甲をドアの面にそえ、かるく振ろうとした。けれどドアが開かれることに、ぼくのノックの必要はいらなかった。うつくしい琥珀色の髪がちらちらとみえた。ぼくがノックしなくても、コハクさんはドアから出てきたのだ。



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