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ボク その7

 『蜘蛛の糸』は、五ページほどの短編小説だ。たった五ページほどの小説なのに、ボクは甚だしく時間を、その五ページに消費した。くりかえして、ボクは『蜘蛛の糸』を読んだ。ひとしきり夢中になって『蜘蛛の糸』を読んでいると、活字をてらしていた照明スタンドのひかりが淡くなっていることに気づいて、窓に目をやると、深かったはずの藍色がただれて朝が訪れていた。ボクは『蜘蛛の糸』の小説を棚にしまい、君の部屋をでた。リビングにはいって、キッチンで水を何杯かのんだ。水を喉にながしこみながら、ボクは君が『蜘蛛の糸』を読んでどんな解釈をしたか、推測してみた。あのひとりの男の物語を目でおってみて、君はどんなことを考えただろう。地獄でもがき苦しむ主人公をみて、君はなにを思っただろう。隙間から糸をたれおとすお釈迦さまを知って、君はどう慮るだろう。ボクにはわかった。けれど、君自身はわからないだろう。君の思ったことをわかるのはボクであって、君ではない。君自身が気づくには、まだ時が満ちていない。ボクは飲干したグラスをシンクに置いた。ソファにすわり、テレビを点けると、ニュース番組がやっていた。左端にしるされた時間は、まだ午前六時をこえたあたりだということを告げている。まだすこし元気のない男のニュースキャスターが原稿をよんでいた。庭のウッドデッキにつながる窓からは、数羽の鳥が朝をつついていた。きのうの雨はもう帰ってこなくて、街よりもずっと遠くで勤しんでいるだろう。静かだ。テレビからこぼれてくるわずかな音量と、朝を旋回する鳥のこえくらいしか、音とよべる音がない。車も走っていない。ボクは、ひっそりとした君の街から、別の街のことを想像した。その街は建物であふれているけれど、君のしるような建物のあふれかたではなくて、全体的に木造的で、それであって機械的で、けれど電線などは巡っていない街だ。そこには様々な人がいて、様々な花がある。そんな街を、ボクは思った。そして、そこで笑う君をそうぞうする。

 しばらくして、母さんが二階の階段からおりてくる足音がする。リビングに入ってくる。「あら、もう起きていたの」と母さんはボクを見つけていって、「コーヒー、のむ?」とたずねてきた。もちろん、とボクはテレビから目をはなしてうなずき、それからまた街のことを思った。ふと、テーブルに置かれていたハサミが、目にはいった。ステンレスのハサミだった。刃渡りの容姿はまだ若く、あたらしい物だということがわかる。ボクはそのハサミを手にとってみる。刃にボクの顔がうつる。ボクのものではない、黒い髪……。ボクのものではない、透明な瞳……。ボクはハサミの刃にうつるボクと、見つめあう。なにかを君は言っている。このハサミは、君のものだ。君は逃亡をはかったとき、このハサミをもっていくのを忘れてしまったのだ。置き去りにされたハサミは、ボクが触れるまでうごかない。ボクが触れるまで、忘れられていた。このハサミがないと、君は断ちきれない。君を拘束してくる縄を、断ちきれない。




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