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ぼく その27

 「いないの」とハナミは答える。ごめん、とぼくが謝るといいのよ、と返してきた。ぼくは何だか申し訳ない気がした。けれどハナミは気にしないような顔でいた。「あなたの知っている花はなに?」とハナミは訊いてきた。「スノードロップ」ぼくはいろいろな花を思い出し(とはいっても花への知識はとぼしいが)、そこからひとつ選んでそう答えた。「スノードロップ」、ハナミはその花の名前をくりかえした。「……いい花ね」「うん」

「スノードロップ。希望、慰め……ね」

「え」

「花言葉よ。花にはそれぞれ言葉があるの。桜なら純潔や、優れた美人。コスモスなら謙虚、乙女の真心。それも色ごとに花言葉が変わっていくの。桜とかも、種類ごとに花言葉がかわったりするのよ。なんだか、素敵だと思わないかしら?」

「素敵だ」とぼくは言った。「でも、覚え切れないな」

「そうね。一つの花にたくさんの花言葉がついているものもあるわ。それに……」

「それに?」

「すべてがいい意味の花言葉、ではないの」

「不吉な言葉も、あるということ?」

「ええ、不吉な言葉と良い意味の言葉、両方をもっている花もたくさんあるわ。人間とおなじで、世界ともおなじよ。いい意味もあれば、悪い意味もある。そして、悪い意味のほうが大きな力をもっている」

 「そのとおりだ」とぼくは言った。そのとおりだった。良い意味か悪い意味、どちらが強いかと問われれば悪い意味のほうが確実に巨大な力をもっているのだ。ぼくは過去をおもいだし、そのとおりだともういちど強くうなずいた。

 「でも、それが百パーセント悪い意味だと決めつけるのはよくない」と彼女はみじかい沈黙を挿んでいった。ぼくは「どういうこと?」とハナミにたずねかえした。ハナミは池にうかんだ蓮を眺めながら、また口をひらいた。「悪い意味にきこえるだけで、それがはたして本当に悪い意味かなんてわからないじゃない。ときにはそういうこともあるのよ。悪が善にかわる、とまではいかなくても、「悪が悪じゃなくなる」ということは。喧嘩をしたとしても、一方的に相手を悪にするのは間違っているように。自分にも、悪かった部分があるんじゃないか、いちど振りかえるの。完全に決別した善悪なんて、滅多にないわ」そんなこと、母親とかよく言うでしょ? とハナミは苦笑しながら付け足した。けれどハナミには両親がいないのだ。笑えばいいのか、ぼくはすこし迷った。結局、笑わないことにした。

「よくわからない」、とぼくは言った。「難しい」ぼくはその言葉を選んでいった。そう、とハナミは言ってから、「わたしの話なんてわからなくても生きていけるわ。あくまで今のは、わたしがした話であって、世界が告げた言葉ではないから。わたしは別に特別じゃない。弱い人間よ」といった。

「でも、ぼくよりは大人だ」とぼくは言った。「ぼくはそんな自論を述べるどころか、考えることもできないよ。すくなくとも、ぼくより君のほうが強い。ぼくは弱いんだ。すぐ逃げてしまう。その逃げた先で嫌なことがあれば、そこからも逃げるんだ。ぼくは離れていくことしかできない。自分に自信はないし、信用もできない。からといって、人に指図されても動けないんだ。泣いて、嘆いて、逃げることしかできない。だらしなくて、とぼしくて、弱いだけのぼくなんだ。君は強いよ」

「わたしが、強い?」とハナミはたずねた。

「君は強い」とぼくはうなずいて言った。

「私が強いわけ、ないじゃない。ごまかしているだけ、ごまかしているだけなの。自分を騙そうと、もがいている。わたしが強いはずないじゃない。わたしは弱いわ。とても弱い。あなたと一緒よ。言ったじゃない? わたしたちは似ているの」

 蓮はひらかない。雨上がりの午後をたずさえた空から、蓮はいつまでも身を閉じている。「わたしたちは、朝を待っているの」と、ハナミは呟いた。ぼくは彼女のつぶやきに「うん」と相槌をうった。「ぼくらは朝を待っている」蓮の花みたいに、そう彼女は言った。「うん」それにも相槌をうつ。「蓮の花みたいに」蓮はひらかない。ひらかないということは、まだ散らない。悪い意味が悪い意味じゃなくなる。そう彼女が教えてくれた。「ねえ」「ん?」

「蓮の花というのは、足元の泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪をさかすの。吸いこむ水が汚ければ汚いほど、蓮はその可憐なうつくしさを発揮できるの。それはもうひどく汚い水ならそれだけいいわ。透明なんて言葉すらも透明にしてしまうくらいの、とても汚い泥がふくまれた水。その泥を蓮はいただくの。ありがたく、その泥を貰うの。むしゃくしゃとその泥を食べていくの。そして、昨日みたような大輪の解放されたうつくしい艶姿を晒す。そういうことから、お釈迦さまの台座につかわれているものも、蓮の花なのよ」


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