ぼく その26
雨が帰ったことを鳥が知らせると、ぼくはコートをはおってようやく外にでた。雨がたちさった直後の街は、まだどこか匂いが曖昧な意思をのこしていた。ぼくはきょくりょくそれを嗅がないようにと注意して歩いた。どこへ行こう。おりていく階段のすみで、雨の屍がなずんでいる。のぞきこむと、白い髪をしたぼくの顔がうつる。さらに背景に晴れはじめた空をみせ、空は正午の敷居をまたいだことをつげる。鳥が鳴き、わらう。雲が割れ、きえる。どこへ行こう。ぼくは一人歩きする花々のかおりを思いだす。おびただしい芳香ははり巡らされたロープをたどっている。ぼくはピンク色のワンピースをきた女の子を思いうかべて、そこへ行こうときめた。ハナミがいるところへ。ぼくは足取りをすこしはやめ、あのながい階段へと足をかけた。しかいの先で列車がはしった。きしみ音は波紋し、階段をいささか震わした。靴底からつたわった振動は無視して、ぼくはハナミのいる花につつまれた赤い屋根の家をめざした。うしろからの視線はもちろんあった。離れることはない。けれど昨日の暴走から、なぜか妙に視線の主張がよわまっている気がした。以前よりも、すこし視線が遠ざかっている。ぼくは安堵すると共に、怪訝の感情もおぼえた。とりあえず、今は気にしないことにする。
やがておびただしい花の群れがみえてくる。ぼくは歩幅をひろげ、そこへ向かう。そして花にかこまれながら、石畳の階段をのぼった。花が這いよる庭がみえ、しげる草陰からあかい屋根をした家がうかがえた。ぼくは草花に身をかくしつつ、覗いてハナミの姿をさがす。ハナミは庭にいなかった。庭にはまだ雨の余白が湿っており、花はさきほどの雨を名残惜しそうに空をみつめていた。昨日ハナミからおしえてもらった蓮華草の花も、雨を忘れられずに空をみていた。けれど空はすでに雨のことなど忘れていた。ぼくは草陰から身をのりだして、視界をひろげた。あかい屋根の家のドアがみえる。玄関のドアのまえには扇状の形をした石畳がしつらえられ、それ以外はどこも草や花、木々となっていた。ハナミの姿はみえない。どうやら室内にいるらしい。ぼくは息をはき、立ちあがって元きた道をもどることにした。振り返る。
「お前さんなにしてんや」
老人がいた。すぐには喋れなかった。それからゆっくりとした流れで「へ」という声が洩れた。へ、口からこぼれ落ちたその声がなんどか脳内でつづいた。そしてようやく輪郭のある声を吐いた。「え!」
「お前さんなにしてんや」
「え!」
「お前さんなにしてんや」
「え!」
これが幾度かくりかえされた。ぼくは右をみて、左をみた。「え!」なにも言えず、それしかこぼれなかった。誰だ。ぼくは辺りをなんども見渡し、視界をぐるぐると回した。高速でながれる視界には白髪頭の老人がかならず入りこみ、「お前さんなにしてんや」という声は老人がうつらなくても聴こえた。「まあ落ち着けや」「え!」「お前さんなにしてんや」「え!」「もうええわそれ」「え!」「なにしに来たんや」「え!」「ハナミの友達か?」「え!」「話にならんな」「え!」「……なにをしているの?」「……え?」
振り向くとハナミがいた。「ハナミの知り合いか?」と老人がハナミにたずね、「そうよ」とハナミが答えた。ぼくは「え」のかたちで口を開いたまま、ハナミと老人を交互にみた。老人の頭髪はしろくて薄くなっていて、まるい縁をした眼鏡をかけていた。「なんや、ならそう言わんかい」老人はそうぼくに言って、家のなかへと帰っていった。ハナミはクスクスと笑い、ぼくに「待っていたわ」と言った。ぼくは赤くなり、「おじいちゃん?」とたずねた。「そうよ。おじいちゃん。わたしと二人で暮らしているの。この家に」「そうなんだ」こっちにきて、とハナミがぼくを手招きした。ハナミについていくと、家の外壁によりそったベンチがあり、そこにすわった。ぼくも隣にすわり、そこから一望できる花々をながめた。まっすぐ先に蓮がうかんだ池があり、さらに遠くにたちならぶ建物らがみえた。頬をひっぱられた太陽が浮かんでおり、ぼくらに光を配ってくる。まだこびりついている雨の残滓を、その光は浄化させる。
「両親は?」ぼくは訊ねた。




