ボク その6
夜が街にいすわってからも、雨の足音がまた聴こえてくることはなかった。ボクは君の部屋のベッドに身を及ばせ、眠ることにした。窓からは真夜中のもの寂しい音につけたすようにキジバトがひくい声で鳴き、自動車が道路をはしりさる音がした。あとは単純な夜の呼吸音と、カーテンの隙間でながれては消えていく雲がこの夜をみたしていた。シーツがすれる生活音がいちじるしく聴こえ、雨がいなくなったこの街でしずかに朝を育んでいった。ボクは目をつむり、眠りで耳が聾されることを待った。ゆっくりと睡眠がボクのなかに波及していって、まだわずかにある意識の滓を磨耗していった。カーテンをしのいで部屋に入りこんできた青い光は、月の抜け殻がこしらえたものだった。そんな光は部屋の壁にもたれていた本棚をほそく切りとってその色に染めた。ボクはほのかに目をあけて、本棚にならべてある本をながめた。しかしよく見えなかった。ただひとつだけ、芥川龍之介という名前がみえた。それに限定して目を凝らすと、その本が『蜘蛛の糸』だということがわかった。蜘蛛の糸――、ボクは完全な眠りにはいるまで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』がどういう物語だったか思い出そうとした。たしか『蜘蛛の糸』にはある花が登場してきたはずだ。それはなんの花だっただろうか。ボクはその花を思いだそうとする。『蜘蛛の糸』、読んだことはある。簡単な話だったし、難しい話でもあった気がする。思い出すことができないまま、ボクはとうとう眠った。音が消え、見えるものが見えなくなった。
ボクは小さな蜘蛛をみていた。蜘蛛はしなやかな糸を垂らしながら歩き、ボクの方へと近づいてきた。細くながい数多の足を器用につかいこなしている。蜘蛛はボクの足元へと近寄ってきて、いちどボクに目配りをしてくる。ボクは蜘蛛が垂らしてきた糸をなぞり、それが続いている方へと視線をむかわせた。するとそこには闇にかくされた君がたっていた。蜘蛛の糸の先端が君のめのまえにあるのに、君はその蜘蛛の糸に触れようとはしていなかった。まるでボクと君を繋ぐなにかを拒んでいるかのようだった。いや、そうなのだろう。君はまだボクを拒んでいる。まだしばらく離隔されたままだ。まだ君には、そこまでの感情が備わっていないのだろう。やれやれ、とボクは首を振り、蜘蛛に目をおとした。蜘蛛もボクを見上げてきた。すこし沈黙があり、それから「ふっ」とボクは苦笑した。もういちど、しげしげと君へ目をやると、君の足元にはなにかの花が咲いていた。とても小さい花が群集になって君の足元にはびこっていた。「ウシノシタクサ……」とボクはその花を知っていた。もういちどボクはやれやれと首を横に降り、それから「そうかい」とうなずいた。蜘蛛は消えていた。君も消えていた。ボクはまだ此処にいて、君もまだ其処にいるのだ。もうすこし時間を要する。まだ「明日」はこない。まだ「明日」は空っぽのままだ。いつまでも「今日」のまま。朝になろうが、昼になろうが、つぎの夜がこようが、「今日」のままだ。息を吐いて、最後に「やれやれ」と、つぶやいた。
ふと思いだしたように意識がボクの目柱をたたき、ゆっくりと瞼をもちあげた。窓はまだ夜で、折りかえし地点をまわったくらいの時刻だった。キジバトの声はまだ街にしのんでいて、街灯の明りもさびしそうに並んでいる。ボクは先ほどの君のことを思った。君の足元にはウシノシタクサの花がよどんでいた。それともうひとつ、咲いている花があった。「蓮の花」とボクはその名を言った。彼の足元でひらいていた蓮の花は手をひろげ、わずかな余生を天にささげていた。それから『蜘蛛の糸』のことを思い出した。ベッドから起き、本棚にならべられた小説のなかから『蜘蛛の糸』を抜きだす。そしてベッドに戻り、照明をつけてゆっくりそれを夜とともに読みはじめることにした。




