ぼく その24
「エリカ、アネモネ、クロッカス、赤いオダマキ、ホオズキ、薊、マツムシソウ、黄色い水仙、牛蒡、黒いチューリップ、勿忘草、スターチス、ヒガンバナ、それと――蓮の花」
「え?」
女の子の声がした。その声がなにを言っているのか、ぼくは最初わからなかった。まるで示された文章をそのまま声にだして読んでいるかのようだったのだ。彼女が淡々とぼくになげてきた言葉のそれは、どうやら花の名前だった。そして、最後に「蓮の花」と言ったのが聴こえた。ぼくは声がした方へ振りむいた。そこには紅い髪のショートカットをした――ぼくと同じくらいの年齢だと思う――ピンク色のワンピースを着た女の子がたっていた。風が吹き、女の子のその紅い髪の毛をゆらす。分けて右目をかくしていた前髪もゆれて、ふたつの瞳が見える。ワンピーススカートの裾が波をえがき、色素のうすい足の太ももをまたたかせる。風が去る。女の子のショートカットの髪がもどる。前髪がまた右目を隠す。ワンピーススカートの裾も落ちつき、足はまた膝より下だけしかみえなくなる。「あ、……の」とぼくは声をだそうとする。なにか言わなければいけない気がした。
「あなたから見えたの」
「え?」
「それだけの花が見えたの」
「いま、君が言っていった花の名前かい?」
「そう」と彼女は言って、ひだり側の髪を耳にかけた。夕刻が近づいてくる気配がした。ぼくは彼女を知らないし、彼女もぼくなんて知らないと思うけれど、ぼくは何故かこの女の子になつかしさに似た感情をおぼえた。「蓮の花」と彼女はいった。ぼくは「蓮の花?」と鸚鵡返しにたずねた。蓮の花……。
「今あなたが見ていた花よ」
「え」ぼくは振りかえり、水面にうかんだピンク色の花に目をやった。まだ花は大輪の艶姿を空にさらし、一滴たらして滲んだような夕刻を不思議そうにながめていた。「この花が?」そう、と彼女はうなずいた。蓮の花、とぼくはその花をみつめて呟いた。遅れて世界をしった蓮の花はまだ空をあおぎ、感じたことのない壮大な昂ぶりの感情のなかにいた。けれど、やはり孤独だった。仲間は眠っている。自分だけが、ひらいて孤独だった。女の子がまた口をひらいた。「名前」ぼくは彼女へと視線をもどした。「あなたの名前はなに?」
コウト、とぼくは名乗った。コウト、と彼女はぼくの名前をくりかえした。「コウト、コウト」そう、とぼくは肯く。おぼえたわ、と彼女はいって「わたしはハナミ」と名乗った。ハナミ、とぼくは彼女の名前をくりかえした。「素敵な名前だね」「ありがとう」と彼女は礼をのべてから、「ハナミの呼び捨てでいいわ。年も同じくらいだと思うし。それにわたし、堅苦しいのが嫌なの。ちゃん、付けもあまり」ぼくは承知して、また蓮の花に踵をかえした。
「でも不思議ね」とハナミもぼくの隣にやってきて蓮の花をながめた。そして言った。
「なにが不思議なの?」
「本来、蓮の花は朝はやい頃に咲くの。あれはまだ新しいわね。二日目くらいかしら。ほんとうなら、午前の七時くらいに満開になって、昼ごろには完全に閉じている。なのに、どうしてかしら。今はもう夕方が目の前にいるくらいの時間なのに。それもあの一輪だけ。他はぜんぶ正常なのに」
「昼ごろには閉じる、ってそんなにすぐ閉じるの?」
「うん、とてもはかない花なのよ。蓮の花って。寿命はせいぜい四日ね。とても短いわ。一週間もたないもの。一日目は六時くらいには開花して、二日目から徐々に遅れていくの。そして四日目には閉じることなく、花びらが散っていくの。でもそれでも幸せそうに、生涯に悔いなんて無さそうに去っていくわ。すばらしい四日間だった、って。そう笑いながら泣いて死んでいくわ。わたしはそれを見ていると、なんだか胸が苦しくなるの。散っていく花びらが水面におちるの。時間というのは無情よ。なにも言わない。なにも感じない。なにも思わない。わたしは季節というものが嫌いなの。時間が着々と進んでいることを告げてくるから。季節はわたしを生き急がせる。焦らす。促そうとしてくる。だから嫌い」
ぼくは思わず口をひらいたまま黙ってしまった。視界にうつしているのは蓮の花ではなくなり、ハナミとなっていた。紅い髪をして、前髪で右目をかくしているショートカットの女の子、ピンク色のワンピースを着ている、女の子。ぼくは驚きを隠せなかった。彼女のその前髪のように、この感情をたくみに隠すことはできなかったのだ。ぼくは唇を結ぶことができなくなっていた。なぜなら、彼女は――ハナミは――まるでぼくと同じことを思っていたからだ。
「ぼくと、同じだ」とぼくは声をもらした。「え?」とハナミはぼくの方をむき、訊ねてきた。「なにが同じなの?」
「ぼくと、同じことを君は思っているんだ」
「どういうこと?」
「ぼくも、季節というものに嫌悪しているんだ。いま、目の前にまた次の季節があるんだ。ぼくの前に。ぼくはその季節から逃げてきたんだ。此処に。その季節がこわくて、ぼくにはその季節と向きあう勇気がなかった。目をつむって、耳を塞いでしまったんだ。身体をまるめて、塞いでいても聴こえてしまう音をかき消すように叫んでいるんだ。「あああああああああっ」って。喉が枯れようと、血を吐いても叫ばなきゃぼくがぼくで居られなくなる感じがするんだ。でも季節は死なない。ぼくの前で、ずっとぼくを見つめてくるんだ」
ハナミの声が消えた。ぼくはハナミの方へゆっくり顔を上げてみると、ハナミはぎこちない笑みを、浮かばせていた。涙まじりの瞳をひっしに曲げて、なにかをごまかすように笑っていた。つたない笑い声をこぼしながら、ずっとぼくを見つめていた。「まるでわたしと一緒ね」そう言った。
「似ているんだ。ぼくたちは」
「そうね」とハナミは言った。「似ているわ」
ぼくはすこしはにかんで足元に咲いていた花をみた。紫色の花だった。ほそい花びらが円になり、中心と先端だけ紫色がにじんでいて、紫のにじんでいない箇所は白色だった。「蓮華草」とハナミはその花の名をおしえてくれた。ぼくは蓮華草の花に目をおとして、そのまま視線を池へとたどらせた。一輪の蓮の花は、まだ咲いている。空がハナミの髪の色をあやかりはじめた。「また明日も、来ていいかな?」とぼくは確認をとった。「もっと花をみたいんだ。それと君とも話したい」「もちろんよ」とハナミは承諾してくれた。そして、つぎは完成された微笑みをみせてくれた。ぼくも笑って、石畳の階段をおりていった。帰ろう、夜がくるまえに。雨が降りだすまえに。




