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ぼく その23

 ぼくはコハクさんの家から外にでたあとも、自身の「分裂」について慮っていた。力任せに切断された、ぼくの大儀的なものが含まれた半分――。大儀的なもの――。わからない、ぼくが呟く言葉はそれだけだった。わからない。コハクさんは雨に訊ねろと言った。ぼくは「雨」について思考をめぐらせてみた。雨が降りてきたときは、まだぼくは眠っていた。風がつよく吹き乱れ、朝を殴っていることに恐怖して溺れていた。ぼくは降っていた雨をしらないのだ。空は雨がいた頃の思い出をわすれて、ただ慣れ親しんだしろい雲を貼っている。もう雨のことは憶えていない。ぼくは帰ることにした。コートの襟をととのえ、まだ履けていない靴を履く。帰る方向へと足をむけ、歩きだす。

 そこで、あの視線が再びまたたいた。後ろからする。コハクさんの家にいたときは感じなかった。外にでた途端にこれだ。視線をおくる主はまだ消滅していなかったのだ。消えず、じっとぼくの背後にいた。足音もする。けれど、先ほどのように近づいてくる気配はない。ひとまずぼくは安堵した。それから仕方なく歩きはじめた。建物がながれていく。視界のとおくに昨日みた、花が溢れかえっている場所をみつけた。ぼくは自然とすこしだけ早足になり、そこへと向かった。群れている色彩が、ぼくを手招きしていた。ついぼくは頬を綻ばしてしまう。しだいに近づいていき、ぼくは足取りをすこし遅くする。そして花たちの群集を正面からながめた。花たちがもたらした薫りや空気が、ぼくにはひとつの祭りに思えた。石畳の階段がつらなっている。豊富な数の花たちがそれを騒がしくはさんでいた。ほんのすこしの間、ぼくは道徳を手のひらから落としてしまっていた。気がつくと、片足を階段にのせてしまっていたのだ。すぐに気がつき、ぼくは躊躇した。けれど花々が手をさしのべてくるようで、ぼくは階段から足をひきずりもどすことができなかった。階段のさきから、奇妙に色づいた煙みたいな花たちの香りがさかのぼってくる。空気をうばい、争いながらぼくへおびただしい薫りを渡してくるのだ。無断でこの階段をのぼってしまっていいのだろうか、逡巡がありながらも、ぼくは階段をのぼりはじめてしまっていた。階段をのぼり終えると、庭につながっていた。地は芝生で、うめつくすように花たちが広々と集められている。庭の面積はひろかった。すこし進むと、ピンク色の花がうかんだ池がみえ、池のむかい側には赤い屋根をした一軒家があった。ここが住居だということを確信する。やっぱり、とぼくは悪い予感が的中した。すぐに歩いてきた道を戻ろうとした。そのとき、池に浮かんでいたピンク色の花のなかの一輪が、ゆっくりと手をのばして開花していくのが目に入った。思わずぼくは足をとめ、それをじっと見つめてしまう。まだ他の花たちは閉じたままだ。口を噤み、ひたすら黙っている。そのなかでたった一輪だけ、そっとぼくに語りかけてくるようだった。それは本当にゆっくりとした動作だった。固く抱き合っていた花びらの一枚いちまいを、それぞれの輪郭に合わせてナイフで切り裂いて、独立させていく。ようやく背を倒しはじめた花びらのひとつは青空をあおぎ、まだ世界を怪訝している仲間たちに「大丈夫だよ」と呼びかける。その声を聞いてまた一枚、花びらがよこたわっていく。夜を育てていく空に肌をさらし、無知のままだった空気をたくさんに吸う。ゆっくりと、ゆっくりと、空からこぼれた光に身をささげていくのだ。足元に敷いたまるい葉に、ひらいた花びらは影をおとす。花は無邪気に、光をほころびの隙間からもらしていった。ぼくはその花をみつめていた。おなじ種類の花は、まわりにもうかんでいるのに、開いたものはあの一輪だけだった。あの一輪だけが世界を知り、しずかに世界と会話していた。いや、あるいは他の花たちはとうの昔に世界を知っているのかもしれない。あの一輪だけが他のみんなより遅れた出世なのかもしれない、とぼくは思った。たとえそうであっても、あの一輪の花はたのしそうに、しあわせそうに、うれしそうに笑っていた。すると涙が、ぼくの頬を伝った気がした。


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