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ぼく その21

「あ、あの……」

「大丈夫よ。もう追いかけていた人はいないわ」

 ぼくはそっと胸をなで下ろした。どうにか助かったのだ。「ありがとう」とぼくは彼女に礼をいった。彼女は「いいのよ」とゆっくり首を横にふり、屈んでぼくに視線を合わせてきた。「もう大丈夫よ。安心して」そう言うと、彼女はまた立ちあがって台所へと向かった。台所のまえにソファがあり、ガラスのテーブルが置いてあった。開いた窓のところに枕がむけられたベッドがあり、向かいに本棚があった。ぼくがつまずいた箇所へと目をやると、そこは玄関とフローリングをへだてる境目だった。横には下駄箱がしつられている。花瓶が置かれており、なかで花がこくりと肩を寄せていた。知らない花だ。胎児の指くらいの大きさをした白い花弁がうつむくように咲いている。「スノードロップ」と彼女がいった。

「え」

「その花の名前よ」

「スノー、ドロップ」ぼくはその名をいった。聞いたことのない名前だ。足元をみつめて垂れ下がったしろい花弁はまるで寂寥に閉じかけた瞼のようだった。うつろな肌をして、花瓶の縁に寄りかかっている。「……綺麗ですね」とぼくは言った。

 そうでしょ、と彼女はいいながらガラステーブルにコーヒーカップを置いた。皿にはちいさいスプーンが添えられ、となりにミルクと砂糖スティックが詰まった入れものが置かれた。「い、いただきます」とぼくは苦い口調でいった。ぼくはコーヒーがあまり好きではないのだ。彼女は自分用にもコーヒーを淹れてもってきた。そしてソファではなく、床に腰をおろした。ぼくと視点を合わせてくれたのだ。「もしかして、私を探していたのかしら」彼女はたずねた。こくり、とぼくは目をそらしてうなずいた。「そう」と彼女はいって、コーヒーカップの縁を唇にはさんだ。それからひと口、コーヒーをのんでからぼくに言った。「私のことはコハクと呼んで」コハク? とぼくはたずねかえした。それから淹れられたコーヒーの扁平な水面に顔をうつした。そう、と彼女はちいさくうなずく。「コハクと呼んで」それが私の名前だから、とコハクさんは言った。ぼくは承知して、「コハクさん」と名を呼んだ。

「なに?」

「あの、さっきもですが、助けてくれて、ありがとうございます」

 コハクさんはコーヒーをまた一口ふくみ、それをゆっくりのんだ。揃えられた唇がまた結ばれ、ぼくに目をやった。「あなたの帰りを待っていてくれた人はいたかしら?」

「はい、」とぼくは返事した。父さんの姿が浮かんだ。「待っていてくれました。ぼくを」

「そう」と彼女は言った。「ならよかったわね」

 はい、とぼくはまた同じ返事をした。すこし沈黙ができた。コハクさんはコーヒーを啜って、解放されている窓をみた。「さっき、雨が降っていたわ」そう、ですね。ぼくは窓を眺めているコハクさんの横顔をみていた。うすい茶色の髪からひっそりと覗いた形のいい鼻、カップにそえた艶のあるちいさな唇、すらりと反ったながい睫毛、すべてに無頓着な大きな瞳、そしてぼくの髪の毛のように白い肌に、ぼくはおもわず見惚れていた。「コウトくん、雨ってなぜ降るかわかる?」

 わかりません、とぼくは答えた。雨が降る理由について、ぼくはいろいろと思案してみた。雲ができるから――いや、彼女が言おうとしていることはそういうことではないだろう。ぼくは雨が降りしきる街の想像をしてみた。そして言った。「わかりません」

「伝えようとしているのよ」

「何を、ですか?」

「何かをよ。雨はなにかを言っているのよ。あなたにも、私にも。そして伝えたら帰るの」

「何処に、ですか?」

「何処かによ。きっとあなたが知っている場所よ」  

 そう言うとコハクさんはまたコーヒーを口につけた。「あなたの怖いものは何?」「怖いもの、ですか?」そう、と彼女はうなずいた。ぼくは自身が恐怖をいだいているものを考えてみた。ぼくの恐れているもの……。

 ぼくは言った。「霧、です。深い霧。それと季節です。ぼくの前にある、季節。それと……風です」

「霧、季節、風」とコハクさんは言葉をテーブルに並べるように言った。コハクさんはまたコーヒーをすこし呑んで、霧や季節や風のことを考えているようだった。カーテンと踊りながら送られてきた風はぼくを通りこして壁にはねかえり、大きく渦をまく。風を追いかけて入りこんできた光が揺れる。スノードロップの花がちいさく首を振る。部屋は風をもてあまし、退屈そうな空の青に話しかける。「あなたはそれらから逃げているのね?」はい、とぼくは小さくうなずいた。ぼくは逃げている。霧から、季節から、風から。そう、とコハクさんは言った。「別に逃げることが悪いことではないわ。前へ向くために必要ななにかをあなたはまだ見つけていないだけなの。だから逃げても構わない。逃げれば、なにか見つかるかもしれないもの」

「見つからないかもしれない」とぼくは弱音をはく。

「見つからないわけないじゃない」とコハクさんはやはり単調な音のながれのまま言った。「人は必ずなにか欠落しているの。歩いているうちに、ポケットからぽろぽろとこぼしていってしまうの。あなたはその落したものを探しに、ここに来たのよ。歩いてきた道をもどるみたいに」

 ぼくは黙っていた。コウトくん、とコハクさんがぼくの名を呼んだ。

「あなたは、「分裂」している」


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