ぼく その20
突如とぼくとの距離を詰めてくる透明な足音は、みるみる明確なものとなっていった。ぼくに近づいてくる。ぼくの鼓膜がその成長していく足音をとらえる。一気に迫ってくる、そうぼくは感受してその足音から逃げることにした。体勢をかがめて、つよく地を蹴った。にわかに走りだしたぼくに、その場にいた何人かがぼくに目をやった。ぼくは下唇を噛み、あのながい階段へと駆ける。一致していた足音はすでにバラバラになり、ぼくは姿もわからない何者かから必死で逃げていた。アーケード商店街の出入り口をよこぎる。建物のあいだをくぐりぬけ、階段をみつける。ためらいなく階段に足をかけ、ぼくはそこを上がる。ぼくを追っている足音も、すぐに階段に足をかけた。手すりをつかんで、屈折された箇所をなるべく動きをすくなくして曲がる。脹脛がつよく張る。いきなり走りだしたことで身体がまだ状況に追いついていないのだ。けれど逃げなければいけない。速度を落とすわけにはいかない。何者かとの距離が、どんどん短縮されていく。呼吸がみだれ、息切れがはげしくなっていく。動悸がつよく波打っている。それなのに思考だけが昂ぶっていく。逃げなければいけない、という恐怖が前のめりでぼくに命令している。走りながら何度もうしろを振りかえる。あらい呼吸が音をたてて心臓をたたいてくる。わきの腹にとがった痛みが刻まれる。喉の奥が重くなってじんわりと血液の味が絡まってくる。汲々と口内がかわいていく。手がふらつき、踏みこむ足が頼りなくなっていく。汗が吹きだし、前髪がはりつく。急激にたかまる体温がタートルネックのなかで窮屈になる。階段をのぼりきり、最後の段でつんのめりそうになる。そのまま速度が緩慢になってしまいそうになる。奴もすぐそばまで追いついている。階段をあがり終えようとしているところだ。まずい、ぼくは緩まっていた足をたたいてまた走りだす。全力で逃げろ、ぼくの脳漿が訴えかけてくる忠告に「わかってる」と怒りながらうなずいた。走りながら唾をのみこんでしまう。体内のはたらきがまた狂い、その代償が足へと寄こされる。だめだ、追いつかれる。ぼくはついあきらめの意思をもらしてしまいそうになる。間隔がきゅうげきに磨耗されていく。息が詰まってひどく咳きこむ。体重が前へと圧してきて、おもわず倒れそうになる。すぐ背後から、彼の影がぼくの影とかさなっていた。
ぼくがしたたかに前面から倒れたのは、フローリング床のうえだった。誰かがぼくの手首をつかんで引っ張りあげていて、爪先がくぼんだ箇所につまずいた。にぶい音がなり、ぼくは額を床に強打した。すぐに手をおしあて、しばらく痛みにもだえた。なんだか、急に視界が暗くなった気がした。ドアが勢いよく閉まる音がした。すこし落ち着き、目をひらくとそこはどこかの室内だった。白くて外に丸みをおびた天井でまわっているシーリングファンがみえた。倒れたまま前をみてみると、大きな窓がひらいていて屈託なく風が入りこんでいる。カーテンが左右でゆらめいていて、ぼくに手を振っている。外からの日光だけがその室内では明りとなっていた。光が充ちていない箇所はうすい陰となっている。ぼくは床に手をついて、起きあがる。手首にはまだ誰かにつかまれた感触がのこっている。「大丈夫?」と聞いたことのある声がした。「え」ぼくはそこに振りむく。ぼくが探していた、彼女がいた。




