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ぼく その19

 ぼくは恐怖から震えていた。灰色の光に散らばったまだら模様の影が、ベッドの布団に投影されていた。ぼくの歯は部屋の窓とおなじようにガタガタと音をたてていた。ぼくは身体をまるめて縮小し、布団をふかくかぶって目をじっと瞑っていた。迫ってくるおぞましさに背を向けて、額に汗のよどみをつくっていた。窓が出鱈目なきしみ音をさけんでいた。ガラス板がいくどと弾んでいた。夜が更けた頃に出産された強風が、そのまま朝を殴りかかってきたのだ。窓のすぐそばで非常識なほどに巨大な特急列車がはしっているかのようだった。怖い、怖い。それだけだった。ぼくを支配するのは恐怖だった。震えている。風で吹かれてそりかえりそうになる樹木の想像をして、風で強引にさらわれていく雲たちの想像をして、ぼくは怖くていれなくなる。粟立っていれなくなる。はやく、はやく風が去ることを望む。風は消えない。風は去らない。おねがいだ。おねがいだから、とぼくは乞う。息があがる。汗がにじむ。思考回路がアスファルトに落ちてこまかく割れる。破片になる。シーツを握りしめる。食いしばった歯が小刻みにふるえる。目をぎゅっと瞑る。耳をふさぐ。言葉が断片的に、降りおちてきた。

「どうしたコウト」

 突然、ぼくを匿っていたものがなくなった。布団がなくなり、耳を塞いでつよく怯えているぼくの姿が部屋にあらわになる。父さんが立っていた。「大丈夫か?」心配そうな表情をしている。ぼくは粗い息をもらして、しばらくなにも喋れなかった。けれど、身を馳せりつづけていた震えはとまっていた。「どうしたんだコウト、嫌な夢でもみていたのか?」ぼくはうつろな目を開いて、「……風」と言った。「風?」と父さんは訊きかえした。

「風が、――強風が吹き荒れているんだ」

 父さんは窓へと目をやった。「強風なんて吹いていないぞ? 雨は降っていたけどな」ぼくはふさいでいた耳から手を離し、父さんへ視線をうつした。それから窓の方をみた。たしかに窓には止んだあとの雨の痕跡があった。雲が溶けてうっすらと青がみえ、たどたどしく日差しが綱渡りをしていた。切らしていた息がようやく落ち着き、ぼくは額の汗をぬぐった。それでもぼくの身から恐怖心は剥がれずにあった。父さんはとても不安そうにぼくの顔色を窺って、「大丈夫か」と訊ねてきた。ぼくはぎこちなく肯き、笑みをつくろうとした。しかし、うまく笑みをほどこすことがぼくにはできなかった。あげた口角がひきつり、無理やり曲げた瞳にはまだおぼろげな強風の余韻がふくまれていた。雨になぶられたあとの街は、とめどなく嫌な湿りをかかずらっていた。

 父さんはぼくに温かなココアを淹れてくれた。白いマグカップに注がれた色の濃いココアからはあまい香りと尖りのない湯気がはらを膨らませてのぼっていた。ぼくはそれを両手でつかみ、すこしずつ口に含んだ。とても甘く、ぼくにこびりついていた恐怖心にとけてやさしく口を去っていった。オーブントースターが高い音をならす。ぼくはココアをのみながら、焼きあがったものを待った。父さんはオーブントースターからトーストを皿にすべらし、ぼくの方へと持ってきた。はこばれてきたトーストは絶妙な焼き加減をこなしていて、表面にぬり伸ばされているものはシーチキンマヨネーズだった。「いまもう一枚焼くからな」と父さんはあらたにシーチキンがすわったトーストを蓋の開いたままのオーブントースターに入れた。そして蓋をしめ、また焼きはじめた。「出来たら自分で皿においてくれ。父さんはもういかなくちゃならない」そう告げて父さんはそそくさと家をでていった。ぼくはトーストを齧りながら、「いってらっしゃい」と言った。それから二枚目のトーストもたいらげ、皿とマグカップをシンクに置いた。そしてぼくも出かける用意をした。

 外をでると、雨から見放された街がかわきつつあった。空には青がうけもつ面積がひろまっており、こまかく分担された白い雲とシミみたいな灰色の雲がおよいでいた。かよわい風がはびこっている。ぼくは黒い九分丈パンツにグレーのタートルネックを着ていた。チェスターコートのボタンをしめ、また商店街のあるほうへと向かった。もういちどあの階段をのぼろう、とぼくは思った。やはりあそこに彼女がいるような気がするからだ。しだいに歩幅をはやめていった。あるく速度がはやくなる。足音をたてる。速度をあげていく。やっぱりだ。ぼくとおなじ速度で足音をならす奴がいたのだ。ぼくがつくった足音にぴったりと別の足音が重ねられていた。それは後ろからする。ぼくはとっさに足をとめ、あたりを見渡した。近くにいるはずだ。ぼくはくまなく辺りに目をやる。どこだ、どこにいる。ぼくは何度もみわたす。鞄を肩にかけてあるく婦女、犬の散歩をする青年、はしゃぐ子供、誰だ。どこにいる。どこを見ようと、視線の主はぼくから乖離せずにいた。それなのにぼくに目をくばる人気などどこにも見当たらない。あやかられた足音は、重なったまま停止している。ぼくは深く息をすった。それを充分にはきだして、ゆっくり目を閉じた。

 何者かがぼくに駆けだしてきたのは、その時だった。


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