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ぼく その18

 あれこれとぼくは彼女の姿をさがし回った。けれど、彼女を見つけだすことはできなかった。気がつくと夕焼けが四方からぼくとの距離を詰めてきていたので、そろそろ帰ることにした。空が紅くにじみだす過程がぼくを妙にやるせなくさせた。街が残したぼくの足跡は、やがて這いよってくるたそがれに目隠しされてわからなくなった。朝になったら、また探しにこよう。ぼくはそう計画を立てて、父さんの家へと踵を返していった。

 家に帰ると、まだ父さんは帰宅していなかった。父さんがドアをひらく音がしたのは、それから三十分ほど経過してからだった。ただいま、と父さんは言いながら食材が詰めこまれたビニール袋を三つ、テーブルの上におろした。「買い物をしていたら遅くなったよ。すまない」と父さんは言った。ぼくは首を横に振って、「おかえりなさい」と言った。

「ただいま」

 父さんはそう返して、柔和は微笑みをした。夕焼けがしがみついて金色になった川面のように穏やかでやさしい微笑みだった。父さんはキッチンに向かい、すぐに料理にとりかかった。コンロに火を点ける軽やかな音がはずんだ。やがてなにかが煮込まれはじめ、その匂いがぼくの肩をたたいて振りむかせた。「なに作っているの」と訊ねると、「シチュー」と父さんは答えた。シチュー、ぼくはその声音の響きになつかしさを覚えた。この懐かしい感情を、窓から招かれていた夕暮れが拾った。日が歿していく。足をひきずって故郷へと帰っていく空とすれ違った夜が、ぼくに指をさしてくる。ぼくは窓から目をそむけた。夜がぼくに話しかけてくる、夜がぼくに唆してくる、夜がぼくに触れてくる。ぼくは目をそむけた。

「……父さん、明日も仕事?」とぼくはシチューをスプーンで掬いながら訊ねた。父さんは「そうだな」とパンを千切って、シチューに沁みこませながら言った。「明日も仕事だ。帰ってくるまで、待っていてくれな」わかったよ、とぼくは肯いた。父さんのつくったクリームシチューは絶品だった。ぼくはステンレスのスプーンで幾度とシチューをすくい、息を吹きかけて頬張った。パンを齧る。大皿に盛りつけられたサラダを、ぼくは小皿にわけて食べる。口でくだいたクルトンの滓が頬の裏につき、ぼくはシチューでそれを交わらせる。「美味しいか」と父さんはいつものやさしい表情でぼくに訊いてきた。目の縁のしたにある小さなしわが、やんわりと曲がってのびた。もちろん、とぼくは強くうなずいた。

 背後の視線はまだぼくを見据えていた。毅然とした風格で、ぼくの後ろからいつまでも鋭い眼差しをわたしてきていた。常に監視されているという歯痒さをぼくはどうすることもできなかった。ぼくはいつまでもなにかの歯痒さに神経をすり減らされているのだ。さらに、視線は気のせいかもしれない――いや、そうであってほしい――のだが、徐々にぼくに近づいてきているような悪寒すら感じた。忍び足のまま、廊下のきしみ音すらもたてず、厳かな犬すらも気づかないその気配を恒常させて、ぼくの背後との間隔を狭めてきている……。ぼくは食べおえたシチューの皿にスプーンを置き、息をのむ。ぼくは彼の視線を背中でうけとりながら、その視線を離さずとらえたままで、口を結び、沈黙をつくり、そしてさっと背後へと振りかえった。瞼をひろげ、なにかを視界に探す。そしてすぐに首をもどし、はあと息を吐いた。「どうしたんだ」と父さんが驚いた口調でたずねた。ぼくは「ううん」と首を振った。やはり誰もいなかった。そしてやはり、視線は消えないままだった。


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