ボク その4
「雨、止まないね」とボクはつぶやいた。雨はやまずにいた。じっと街の頭上に据わり、アスファルトを濡らし、建物を濡らし、庭を濡らし、草々を濡らしていた。君はコーヒーを嫌い、雨も嫌うのだろうな、とボクは思った。君のとなりあわせに降る雨のことをかんがえる。君はまだボクを知らない。君は傘をさして、雨に濡れないように生きているのだ。
「わからないわ」と、母さんは言った。「さっぱりよ」そういって首を横に振った。
難しく捉えようとするからだよ、とボクは言った。「人はすこしでも自分の理解力を常時より多くうごかすことを要されると「難しい」という言葉を吐くんだ。たしかに、難しいものは難しいし、易しいものは易しい。でも、難しい易しいという有無を問わないものもあるんだよ。どんな答えでも、どんなに納得いかなくても、それが正解だと言ってしまえばそうなってしまうものだってあるんだ」
母さんはコーヒーを飲みほして、空になったマグカップと同時に暫定的な沈黙を置いた。その沈黙の膜の外側では、まだにわか雨の音が持続されている。
「母さん、世界に解答があるものなんてごく僅かなのだと、ボクは思うんだ。母さんがコーヒーを飲みほすことに、正解も不正解も要らないとおなじように。まだコーヒーメーカにコーヒーが残っているから、おかわりするということにボクが反対もしなければ賛成もしないのと同じように。どちらでも構わないんだ。正解、不正解。難しい、易しい。そんな言葉を必要とするものは、明晰的な輪郭をもつ概念だけだ。この世は、いや、人生っていうのはほとんどが曖昧なままで完結するものなんだよ」
母さんは空になったマグカップの中を、じっと覗いていた。「コウト、なにが言いたいの?」
ボクは笑った。「つまり。あなたの知っている息子のコウトが家出しようと、目の前の季節から逃げようとしても、それに正しいか正しくないか、なんて決定できないっていうことだよ。逃げればみつかる何かがあるかもしれない。前だけみていても、すべて円滑に進むわけではないんだよ」
母さんは「難しいわね」とわざとらしく強調した声色で言った。それからマグカップを持って、キッチンに向かった。コーヒーメーカにまだ残っているコーヒーをすべて注ぎ、ミルクをくわえてスプーンで混ぜた。スプーンで混ぜながら、彼女は言った。「曖昧なものが、一番難しいものよ。コウト」
はは、とボクは笑った。「確かにそうかもしれないね。母さんの言うことにも一理あるよ」
母さんは言った。「一理どころじゃないわよ。四千二百里くらいあるわ」




