ぼく その15
それは家に帰宅してからも、ずっとぼくの影に泰然とまぎれていた。陰鬱につきまとってくる影が、ぼくを背後から見据えていた。ぼくはその視線を感受し、さっと死角へと振りむくが、やはりそこには誰もいなかった。父さんはぼくのコートをクローゼットの扉にハンガーで吊るしている。ぼくは視線をかんじる背後を、じっと睨む。誰もいない。そこには木の壁にかかったカレンダーだけがある。その付近にも、なにもない。ソファに腰をあずける。それでも何者かの視線はなかなかもどらない寄せ波みたいに、ぼくから離隔されることなく留まっていた。この空間には、たしかにぼくと父さんしかいないはずなのだ。誰かが、ぼくの付近でぼくを監視していた。
とりあえず風呂にはいれ、と父さんはぼくにバスタオルを投げてきた。「服はコウトのものを使ってくれ」「うん」ぼくは風呂場へと向かった。リビングをでると木板の廊下があり、はさんで向かいには父さんの寝室部屋があった。そのとなりにコウト(ぼくではない、本来の父さんの息子)の部屋があった。それからすこし間隔をあけてトイレと風呂場があった。ぼくは風呂場につながる引き戸をあけ、閉めて服をぬぎはじめた。洗濯機と洗面台があり、浴室へとつづいていた。ぼくは浴室へ足をふみいれる。
シャワーが振りかぶってきて、ぼくの髪がそれを伝わせる。顔面をシャワーのお湯が覆っていき、首と肩から順序よく身体をなぞっていく。まだ気配はある。まだ、誰かがぼくを監視している。口もなく鼻もなく目もない、姿をたずさえない誰かがぼくを覗きこんでいた。眠りのおわりを告げる朝の日差しのような白い髪をしたぼくの顔が、浴室の鏡には映しだされていた。ぼくはシャンプーを手の平でとり、頭皮を洗おうとしている。ぼくの目は、ぼくを見ている。鏡のぼくも、ぼくと同じことをしている。頭上で泡立っていく。シャンプーが溢れて前髪にたれる。鏡のぼくとぼくは片目を瞑っている。鏡のぼくのうしろには、浴室の壁がある。白い浴室の壁がある。そこにぼくを見つめつづけている誰かの顔が、名前もなく姿もない誰かの瞳が、ぼくの右肩のうえから覗いている――。
そこにはやはり、誰もいなかった。
部屋にもどり置かれたデジタル時計に目をやると、すでに二十五時をまわっていた。ぼくは部屋のあかりを消し、ベッドへともぐる。消灯した部屋の壁にぼくは触れる。木々の薫りと、呼吸する声がぼくの耳を通過する。ドアの足元にわずかにひらいた隙間からは、リビングから灯る光が滲んでいる。父さんの足音がする。木板の廊下を踏み、じんと軋んだ音が部屋までわたってくる。まだ、視線がある。まだ、誰かがいる。眠らずに、深い夜に背もたれてぼくをみている。視線はなにかぼくに陰謀をしのばせている。振りむいても、そこには壁しかない。その者が誰なのか、なになのか、ぼくになにを「意味」しているのか、ぼくにはわからない。見当もつかないまま、おとずれた眠気が夜を煽っていった。ぼくは瞼をとじながら、ぼくを助けてくれた父さんや彼女の言葉を思いだした。
此処はあなた「が」知らない街で、あなた「しか」知らない街なの。わからない。ぼくにはわからない。父さんがぼくに話した言葉の意味や、彼女がぼくに告げた言葉の意味が、ぼくには何もわからない。その言葉に、ぼくはかぶりを振るうことも、コクリとうなずくこともできない。まだ夜はぼくを見つめている。まだ朝は眠っている。時計は夜明けを急かしている。ぼくの知らない街は、まだ深い霧のなかにいる。




