ぼく その14
帰り。ぼくは父さんが運転してきた車の助手席にすわって街の景色をみていた。駐車場からうごきだした車の窓からは、手前にくだり坂の道路があり、遠くには建ちならんだ建物のシルエットがみえた。あそこにぼくは、先ほどまでいたのだ。凝縮された建物のシルエットからは光を洩れさせていて、ここからでも眩しかった。
「コウト、お前はどこから来たんだ?」
「父さんの知らないところからだよ」
「そうなのか。そこにはお前の親はいるのか?」
「いるよ。母さんがいる。でも父さんはいない」
「そうか、母さんか。なら逆だな。ここには父さんしかいない」
ぼくはうなずいた。バックミラーには『ニワトコ』からはなれていく過程を話すリアガラスがあり、後部座席がみえ、そしてぼくの顔があった。ぼくの髪の毛はやはり白いままだった。「その母さんは、元気なのか」と父さんは前をみつめたまま訊ねた。
うん、とぼくは肯いた。「元気だよ。元気だと思う」今頃あの人はどうしているだろう、とぼくは想像した。家出したぼくに気づき、あわてふためいているのかもしれない。それとも逃げだした息子になさけなさを感じて、呆れてしまったかもしれない。それでも仕方ない、と呟くぼくもいた。
「それは違うな、コウト」と父さんはいった。「逃げだすことが情けないことじゃない。逃げることで助かることもあるんだ。まあ、いまのお前がどんな状況でここにきたのかは知らないけどな。逃げだすことが何も悪いことではないさ」
「ぼくは今の環境が嫌になって逃げだしてきたんだ。ある季節が、ぼくの視線の先にみえるんだ。でもぼくはそれが怖い。母さんだけが、その季節を見つめているんだ。けれどぼくはどうしても決心できなかった。そして逃げてしまったんだ」
「コウト。お前は逃げることに――つまり今の自分がしている行動に――意味はあると思うか?」
ぼくは顔をしずめた。視線のさきは真っ暗でなにもみえなかった。向こうではあれだけ灯りがはびこっているのに、夜の空はなにも光を与えるものはなかった。「無い」、とぼくは答えた。「意味なんて、無いよ」
「あるんだよ」と父さんはいった。「逃げたい、と思ったのならそれは正解だ。食べたい、と思ったのならそれは正解なんだ。すべてのことに、意味はあるんだ。意味の無いことはない。お前がその季節から逃げだした意味を、お前がいちばん知っているんじゃないか? この街に逃げてきたことにも、お前は意味があるんじゃないか? この街をお前は知らない。けれど、知っているから、この街に逃げてきたんだろう?」
父さんが懇々とはなすその話の「意味」を、ぼくは理解することができなかった。なにを伝えようとしているのか、ぼくには分からなかった。いや、父さんは敢えてそう意図して話しているのかもしれない。ぼくはそう思った。しかし、ぼくにはそれを読み取ることができなかった。
「お前が思ったことが正解なんだ。お前が解釈したそれが正解なんだ。コウトが起こす行動のすべてに、コウトの周りにあるものすべてに、かならず意味はあるんだ。それが深くても、深くなくても。なにも難しく考えることじゃない」
「すべてのことに、意味がある」と、ぼくは言う。
「ああ。意味がある。その季節から向き合えず、お前は逃げてきたんだろう? それは逃げることで気づく何かがある、と思ったからじゃないのか?」
「逃げだしたことで、分かることがある」ぼくはその言葉を反芻した。
「前に進むことだけが正しいんじゃない。たまには後ろに振り返ることも、必要なんだよ」
ぼくは窓からながれる街の景色を、もういちどながめた。煌びやかな建物のシルエットは、父さんの運転する車と平行してあるいていた。ガードレールがたなびき、草木に風が唄をきかせ、揺れる夜がぼくの心も揺らした。
「ねえ父さん」
「ん、なんだ?」と父さんはフロントガラスを見つめながら、眉をあげてぼくに耳をかたむけた。
「この街は、ぼくを受けいれてくれるかな」と、ぼくは訊ねた。夜がながれる。
父さんは「はは」と暫定的に笑い、「当たり前だ」と言った。「受けいれてくれるさ。だからお前はここに来たんだ。この街に意味があると思ったから来たんだ。そうだろ?」
うん。ぼくは肯いた。
「此処はお前「が」知らない街であり、お前「しか」知らない街だ」
このとき、ぼくは気づいていた。この車の後部座席に――ぼくのすぐ後ろに――誰かが坐っていることを。




