ぼく その13
父さんに連れてこられた場所は、『ニワトコ』というラーメン屋だった。駐車場には何台かの車が駐車しており、そこから階段をあがるとその店舗はあった。木板のドアをしていて、それを押すと鈴の音がなった。暖簾をくぐるとまずレジがあった。レジ台へとつらなった木板はカウンターテーブルとなっていて、寄り添うように赤いカウンター椅子がならべられていた。通路をはさみ、テーブル席もまっすぐに整列している。客はぼくら以外にもいた。
父さんは勝手に奥のテーブル席へと腰をおろした。ぼくは向かいに座り、お冷をもってくる店員をじっと待った。店内はちいさなクラシックの音楽がながれていて、それを潰すように厨房からの食器がふれあう音やフライパンのうえで吼えた炎の音などがした。店内の壁には白いみたことのない花の絵が描かれていた。赤い点が中心にあるおはじきのような白い花が幾多とあつめられた状態で、枝先に飾られていた。ここの店名から連想してみると、どうやらこれが『ニワトコ』という花なのだと思った。
コウトは何にするんだ、と父さんはメニュー表をながめながらぼくに訊ねた。そのときお冷をお盆にのせた店員がぼくらの前にそのグラスをさしだし、「注文決まりましたらお呼び下さい」と丁寧な口調でいい残してきえた。「父さんと同じでいいよ」とぼくは言った。そうか、と父さんはうなずいて店員を呼んだ。
やがてふたつの容器が運ばれてくる。木のテーブルにおかれた器に入ったラーメンからは、幾多と服をきこんだスープのにおいが鼻腔へまねかれ、それに手を添えてつらなってきた湯気に顔をくすぶられた。ぼくはその醤油風味の芳ばしさをそのまま受けいれ、彼のやさしさにゆっくり抱擁された。思わずこぼれた綻びが、くらい部屋の戸棚の奥からわすれていたものを取りだしてくるようだった。そのふわりと浮いた香りで、ぼくは感慨深くなった。なぜだか、懐かしい気分になった。ぼくがまだ幼少の季節にたっているときの、まだ幼少な季節にたっている土曜日の窓からみた昼間の光景が、ぼくの脳漿から垂れこめてきた。そんな純情な空を、おもいだしたのだ。
「どうした、食べないのか?」と父さんは箸で麺を啜りながらぼくにたずねた。
「ううん、食べるよ。もちろん」
ぼくは割り箸を手にとる。太くまっすぐな麺の上にはチャーシューが二枚そえられ、それにメンマが三つ肩をならべて置かれて、半身をつからせた海苔がくつろいでいる。中心におとされた生卵が、白い脂をおよがす醤油のスープとからまって、ぼくの空腹へと挑発してくる。ぼくはレンゲでスープを掬い、口にふくむ。箸で麺をつかみ、顔を近づけてそれを啜る。吸いついた麺が手ばなしたスープの滴が、激しくはねる。チャーシューを齧る。メンマを頬張る。麺を啜り、水をのむ。熱いスープに敷かれた卵の黄身が、ゆっくりと浸透していく。ぼくの空腹が呼びかけてくる。充たされていく食欲と、充たされていく胸の奥が、共に暖められて丸くなった。
父さんはぼくを見て、気持ちよさそうに笑っていた。自分でもおどろくその食べっぷりに、父さんは満足そうな笑い声をあげていた。ひとつのカタルシスか何かのように笑っていた。なんだかぼくは恥ずかしくなった。なあに、と父さんは笑いながらいった。「恥ずかしがることじゃない。俺はいまお前のその威勢のよすぎる食い方に感動してんだよ」
それから運ばれてきた春巻と餃子も、ぼくは空腹の言いなりになって平らげた。噛み砕いたそれらが内臓へとおもむかれていくのがわかった。父さんに残しておいた分も、「もっと食べろよ」とわらう父さんに礼をいって口につめこんだ。活発にはたらく喉に追い討ちをかけるように新たに注文した唐揚げも頬張った。空だったうつわが満ちていく実感が、つよくぼくを支配していた。額ににじんだ汗や、鼻水が、さらにそれらを讃えていた。
ひとしきり食べ終わったあとで、ぼくは父さんに「ありがとう」と礼をのべた。父さんはまた豪快に笑って、「それはこっちが言いたい台詞だ」と言った。
「お腹が空いていたんだ、ごめんなさい」
「どうして謝るんだよ。コウトの食いっぷり、感動したぜ。人が詰めこまれて一瞬で満員になる列車の景色が浮かんだぞ」
はは、とぼくは微笑した。「そんなにかな」「ああ、そんなにだ」父さんは目の端に涙をうかばせるくらいに笑いながらコクコクとうなずいた。




