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ぼく その11

 最後に名前だけでも訊こうとおもい、「そういえば」とぼくは隣へと目をむけた。「名前はなんて――」けれど、ぼくはそこで言いおえようとしていた言葉をぶつりと切った。そこに、彼女の姿はなかったのだ。あの動きのない表情も、影も、ぼくの隣に彼女がいたという形跡はまるで消えていた。え、とぼくはおもわず声を洩らした。そこには夜がつくろうひえた空気と、それが佩びた翳りだけがのこっていた。

 その翳りすらも取りはらわれたのはすぐだった。ノックした赤いドアのとなりに設置されていた電灯に、明りがともったのだ。そしてガチャ、という音とともに開かれたドアの隙間から家庭的であたたかな光があふれでてきた。ぼくの足元にその光がはしり、そこに男性の影が貼られた。そして、男の白い髭がみえた。

「ただいま」

そんな言葉が、自然と唇の狭間からこぼれた。ぼくはそんな言葉を口にした。ただいま、と。図らずもこぼれたその言葉を、ぼくは気恥ずかしく思った。ドアから染みでてきた光はぼくの影をも攫った。そしてぼくは、登場したその男の人とはじめて顔をあわせた。

「コウト、どこに行っていたんだ」彼はいった。表情には、ぼくの帰りを心配していた影がまだあわく残っていた。「もう夜も深いんだぞ」

 ごめんなさい父さん、とぼくは謝った。それから彼のことを「父さん」と呼んだ自分にはっとした。父さん、何故なのか、ぼくはまた泣いていた。父さんというその響きが、とても懐かしくおもえたのだ。いや、ちがう。懐かしいのではなく、本来ぼくには「父さん」と呼べる人間はいなかったのだ。

「おいコウト。なにを泣いているんだ?」父さんはぼくの顔を覗きこむようにして見てきた。涙は流暢としたうごきではなく、訥々としていてそのぶん一粒ずつの輪郭がおおきかった。ぼとり、と絞りだしたかのようにこぼれる涙を、ぼくは拭わずに玄関の地におとしていった。「どうしたんだ、コウト」そう訊ねながら父さんは、そっとぼくを抱きよせた。父さん、とぼくは泣きながら言っていた。ぼくを抱きしめる父さんの腕はかたく、つよい包容感があった。室内から顔をのぞかせる光があたためた優しさは、ぼくの底でよどんでいた泥みたいな恐怖心をとかして、こねくりまわされて固くなっていた不安な感情を歿し、身体をしばっていた拘束感を絶えさせた。

「父さん」とぼくは父さんの肩に顔を埋めたままでいった。何度もせり上がってくる嗚咽がその言葉にいくつかの切れ間をつくった。「本当はぼく、違うんだ。父さんの知っている、コウトじゃないんだ。父さんの、本当の息子じゃないんだ」

 ぼくは父さんの肩から離れようとした。けれど父さんはかまわずぼくを抱きしめてくれた。そしてちいさな笑い声を落した。

「そんなこと、もう分かっているさ」

「え?」

「お前が俺の知っているコウトじゃないことくらいすぐに分かるさ」そう父さんが言った。そして抱き寄せていた腕の力をよわめて、ぼくの顔をじっと見つめてきた。そしてにっこりと、本当の父親みたいな微笑みをみせた。「でも、お前が俺と赤の他人、ってことは絶対にない。そう思えるんだ。息子じゃないけど、息子なんだ。そんな風に思えるんだ。コウト、お前はコウトじゃなくても、コウトだよ」

 うん。ぼくは瞼をあかく腫らしたままで、頬に筋をえがいたままの顔でうなずいた。そうだよ、と。「ぼくは、コウトだよ」

「おう。おかえり、コウト」

「うん。ただいま、父さん」

 ぼくは、離れていった母さんのうしろ姿を思いだした。母さんはまだ、そこであの季節をみつめていた。ぼくはまだ、ここであの季節から逃げていた。逃げながらぼくは、泣きながら笑っていた。


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