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望郷  作者: 日向夏
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1 ある情夫の悩み

(明日は仕事だって言ったのに)


 ゼルはだるい身体を無理やり寝台から起こした。床に脱ぎ捨てられたシャツを拾うと、もろ肌の上に着る。簡素な円卓の上にある合わせ貝の器を取り、日射避けのシャドウを目の下に塗る。金髪に、ターバンを巻く。


 さして広くもない安宿は、それ相応の部屋であり、寝返りのたびにきしむ寝台が二つ、円卓と椅子が一つずつ、窓はたった一つあるだけだ。日干し煉瓦の厚い壁は隣に音が響かずそれだけは、床に転がった酒瓶と気だるげにまだ寝台で寝ている人物を見るたびにありがたいと思う。


 日差しががたついた窓からこぼれている。ぎしぎしと嫌な音をたてながら開けると、煉瓦れんがの薄茶と、ナツメヤシの緑と、空の青が広がっている。日の位置はまだ低いが、外には荷馬車の音と行商人の掛け声が聞こえていた。


 朝市がたっているらしい。

 それなら、宿で朝飯頼むのではなかったと、眉間にしわを寄せる。安いだけの宿にふさわしい腹にためるだけの代物なのだ。


 ゼルは、まだ横で寝息を立てる相方をにらむと、寝台に蹴りをいれる。


「おい、起きろ」


 上掛けを引っぺがすと豊満な裸体が横たわっている。日と潮風に焼けて赤くなった髪が、ぼさぼさに広がっている。


「あらん。おはよっ」


 飲み屋の女亭主のごとき、甘い声である。ゼルの首に巻き付き、接吻しようとするのを、面倒くさそうに払う。


「朝飯食いに行くぞ」

「ええー。朝はお酒で十分よお」


 妖艶な笑みを浮かべる相方ことガーネットは、枕元の酒瓶を口にする。しかし、怪訝な顔をして酒瓶を振り、中を覗き込む。


「ねえ。ゼル、おさ……」

「ねえよ」


 ゼルは、冷たい一言で切り捨てる。


「ねえ、おさ……」

「ねえってば!」


 ゼルは気が長いほうではない。床に落ちているガーネットの服を掴むと、持ち主に投げつける。


「いらいらはよくないわね」


 ガーネットがぺろりと舌を出した。


「運動すれば、気持ちよくなるわよ」


 ゼルの背筋に悪寒おかんが走るとともに、そのまま羽交い絞めにされる。


「おい!」


 ゼルはあがくが、いつのまに寝台にはりつけられる。

 体格はゼルのほうが大きく、一般人よりも鍛えた肉体であるにも関わらず、いつもガーネットには敵わない。


 アル中女は、酒の代わりに違うもので酔うことにしたらしい。


 ゼルは朝食を諦めため息をつき、天井のしみを数えることにした。






 結局、朝食どころか仕事にも遅れてしまった。


 遅刻が、半月で三回目となれば、雇い主も機嫌が悪い。しかも、その理由はすべて寝坊による。


 ゼルは言い訳しようともしなかった。本当のことを言ったら、さらに不機嫌になることだろう。


 ぐちぐちとした嫌みとともに、休憩なしで働かされる。小麦入りの麻袋を船に運び入れる作業で五十往復を終えた頃、雇い主は、


「明日から来なくていいよ」


 と、言った。


 殴りかかりたい衝動を必死に抑えながら、ゼルは陶製の貨幣をもらう。遅刻のペナルティを引かれているため、額はいつもの半分だった。

 宿代を一人分払っておつりがくる程度の額である。


「また、無職かよ」


 ガーネットに仕事を辞めたことを伝えたらなんというだろうか。


「だいじょぶよ。あたしが稼いであげるから」


 と、胸を叩くに違いない。今朝の行動もゼルの仕事を邪魔するためにやったのだろう。


 あの女は、ゼルが自分で働くことを快く思っていないのだから。


 そうなることをわかっていて、仕事があると口走ったゼルは後悔した。うかつな自分が悪い。


 仕事がうまくいかない原因は、ガーネットだけでない。

 うまく口が回らず、ぶっきらぼうに接しては、他人の不興を買う、それも自分が悪い。


 どれか一つ器用ならば、一人で生きていくこともできるだろうが、それもできずに今の今まで過ごしてきた。


 まともに稼げず女に養ってもらう男、人はそれを情夫ひもと呼ぶ。






(さてどうしようか)


 まだ、日はまだ高いので仕事探しをしようと思うのだが、これがなかなか難しい。

 

 どんなにきつくても何も考えずにすむ肉体労働が好ましいのだが、求人には接客業と用心棒と事務と会計の仕事しか載っていない。一番まともなのは、用心棒だがまともな雇い主はごく稀なので却下する。


 ゼルは、広場の掲示板をにらむのをやめると、石造りの長椅子ベンチに座る。空は、雲一つなくゼルの心情と対照的であった。


(なんか仕事しねえと)


 一生、情夫のままだ。


 眉間のしわが深くなる。


 ふと、なにやら腕を組むおっさんがいる。ヤシを眺め、困っているようだ。片手には、植物の花を持っていた。


 ゼルはぴんときたらしく、おっさんに近づく。小太りの親爺は、足に包帯を巻いていた。


「おっさん、俺が代わりにやってやろうか?」

「ん? 本当か?」

「ああ。駄賃は貰えるか?」


 おっさんが揚げ菓子が一袋買える陶貨コインを見せる。


(まあ、こんなもんか)


 ゼルはおっさんから、花を受け取ると、靴を脱いで帯にさす。ちくちくしたヤシの幹に足をかけるとそのまますいすいと登っていった。

 てっぺんまでたどり着くと、葉とともに垂れ下がる花のようなものに、持ってきた花をはたく。


 まんべんなく叩いたところで、滑るようにしゅるしゅると降りる。


「助かったよ。収穫が半分になるとこだった」


 ゼルがしたのは受粉作業だ。雌花に雄花の花粉をつけることで、花は果実になる。ナツメヤシは風でも受粉するが、人の手でやったほうが、効率が良く、実がたくさんなるのだ。


 ゼルは陶貨を受け取り、雄花を返すがおっさんは受け取らない。


「なあ、にいちゃん。他のも頼めないか?」


 おっさんが指さす先には、違うヤシが生えている。

 

「一本につき、一枚ならいいぜ」


 ゼルは、ようやく眉間に寄ったしわがほぐれた気がした。






 おっさんは嬉しいことに人使いが荒かった。街のいたるところに連れまわし、木登りをさせる。途中、雄花がボロボロになったので、市場で新しい雄花を買って続けた。


 財布代わりの布袋には、小さな陶貨が三枚、中くらいの陶貨が二枚追加される。


 これで半額にされた給金分はなんとかなった。


 屋台で美味いものでも食べ歩きしたいところだが、せっかく稼いだ金を減らす気にならなかった。


 仔羊肉ラムを焼いて小麦の皮で巻いた料理を横目に見つつ、安宿を目指す。


 すると、聞き覚えのある声が通り過ぎた食堂から聞こえてきた。


 女の歌声だ。


 甘く切ないたおやかな声は、ろれつが回らないアル中女のものとは思えない。

 一語一語、一節一節に情景が宿っているような、そんな歌だ。


 ゼルは足を止め、振り返って戻ると、食堂の入口から内部をのぞきこむ。


 酒の入り始めた時間帯にも関わらず、客は口を動かすのも止めている。

 食堂兼酒場といった特に洒落っ気もない場所なのに、客がまるで宗教歌に聞き入る信者のようだった。


 ガーネットは裾の長い衣装に、頭にはすっぽりヴェールをかぶっている。そこに普段の好色さは欠片もなく、ただ美しい歌い手がいるだけだった。


 歌が終わると、ガーネットはゆっくり腰をおり、木箱を重ねただけの粗末な舞台から降りる。


 時間が止まったかのような客、それと手が留守になっていた従業員たちは、一人が始めた拍手によって次々と手を打ち始める。


 気が付けば、ゼルの周りにも観客が集まっていた。通りすがりの人間たちが、これだけガーネットの歌に吸い寄せられてきたのだ。


 弦楽器リュートも木管楽器もなく、無伴奏アカペラでこれだけ周りを魅了する。


(俺にはもったいない女だ)


 口に出して絶対に言うことのない台詞を何度、反すうしたことだろうか。


 店の裏に戻ろうとするガーネットを数人の男たちが引き止める。場末の酒場にはもったいない、上等な衣服を着ている。


 ガーネットは柔らかくはかなげな笑みを浮かべて断りを入れる。


 それを見てほっとする自分の器量の狭さに、ゼルは嫌悪する。


「もう、あっちの仕事は終わりにするわね」


 そう言って長年住み慣れた街を出たのは五年前、ゼルが十六歳、ガーネットが二十歳のときだった。


 その当時、ガーネットの稼ぎは今の比でなかった。

 若いツバメが一人と言わず、十人以上囲える額を稼ぎだしていた。


 それをずっとゼルは、複雑な気持ちで見ていた。


 一晩の夢を与える蝶、ガーネットは高級娼婦だった。


 身売りした金で養われる自分がひどく情けなくてくやしかった。だから、ゼルは、ガーネットの旅に出ようという提案を受け入れた。


 それから点々と街を移動している。安宿を借り、日雇いで金を貯め、貯まったら次の街へ行く。

 

「なんか合わないのよねー」


 そんな気まぐれな女の言葉は、数か月ごとにくる。


 最初は特に気にならなかったゼルだが、それが何度も続くとだんだんおかしいと感じるようになった。

 まるで、ガーネットは何者かから逃げているようにも思えた。


 それを言ったところでガーネットが正直に話すとは思わない。むしろ、いつもどおりおちゃらけてはぐらかすに決まっている。


 だから、知らないふりをする。


(そろそろ、この街も潮時かな)


 ガーネットが酒場で歌い始めるのは、街を出る前に資金を手っ取り早く稼ぐためだ。歌だけならよい、時に出資者パトロンをつかまえることもある。


(情けねえ)


 小銭だらけの財布を握りしめ、ゼルは人だかりを後にした。


 自分が頼りないただの情夫だと再認識した。




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