悪役令嬢になったのは、ずっと妹の引き立て役をさせられていたから
その夜、エレノア・グランチェスターのために用意されたのは、淡い灰青色のドレスだった。
上質ではある。絹の艶も、袖口の刺繍も、仕立ても申し分ない。けれど鏡の前に立ったエレノアは、一目で分かった。これは自分を最も美しく見せるための色ではない。隣に立つ娘を、より可憐に見せるための色だ。
案の定、母は満足そうに頷いた。
「ええ、これでいいわ。あなたは少し控えめなくらいがちょうどいいの。今夜はリリアンが主役なのだから」
隣室では妹の支度が進んでいる。侍女たちの笑い声が廊下まで流れてきた。春の花を思わせる桃色のドレスに、真珠を散らした髪飾り。きっと誰が見ても愛らしい。
母はエレノアの肩の飾りを整えながら、当たり前のように言った。
「あなたは姉なのだから、少し下がっていてちょうだい。その方があの子が綺麗に見えるわ」
少し下がる。
その言葉を、何度聞いてきただろう。
リリアンが生まれて間もないころ、あの子はよく熱を出した。季節の変わり目ごとに寝込み、長く立つだけで息を切らし、夜になると咳き込んで眠れなくなることもあった。幼いエレノアは、そのたびに自分の願いを引っ込めた。遠乗りも、茶会も、新しい靴を履いて出かける日も、妹の体調ひとつで簡単に消えた。
あなたはお姉ちゃんでしょう。
あの子は弱いのだから。
我慢してあげなさい。
最初のうち、エレノアは本当にそう思っていた。妹が苦しそうに息をしているのを見れば、自分のわがままが恥ずかしくなった。小さな手で熱い額に触れた夜もある。泣くのを堪えながら薬湯を運んだこともある。
だから譲った。だから引いた。
それでよかったはずだった。
妹が、本当に弱かったあのころまでは。
母は、あの子の薬の時刻も、窓を開ける角度も、夜の話し声の大きさも、何もかも覚え込んだ。侍女への指示は細かく、ひとつの咳にもすぐ駆けつけた。あのころ母が必死だったことだけは、エレノアにも分かっている。
けれど医師がもう心配ないと言って久しくなっても、屋敷の中だけは変わらなかった。初夏でも夜風を避けるよう肩掛けを持たせ、長椅子から立つときは必ず誰かを寄越し、話が弾みすぎれば疲れるからと先に切り上げる。
弱かった妹のために整えられた暮らしが、そのまま今も続いている。
グランチェスター公爵は、春先から領地視察で王都を空けていた。北部の河川工事と新しい灌漑設備の確認で、ここしばらく屋敷へ戻れていない。父は外の実務に強く、屋敷の内向きの采配は長く母に任せてきた。父が見るのは整えられた結果だけで、その結果が誰の我慢の上に成り立っているかまでは届いていなかった。
「お姉様」
明るい声に顔を上げると、支度を終えたリリアンが扉のところに立っていた。桃色のドレスはよく似合っていて、頬は健康的に色づいている。大きな瞳が嬉しそうに細められた。
「今夜、わたくし少し緊張してしまって。お姉様が一緒なら安心ですわ」
悪意のない、いつもの笑顔だった。
昔と違って、リリアンは今では普通に歩き、食事をし、舞踏会にも問題なく出席できる。咳き込むこともほとんどなくなった。医師ももう、特別に気をつける必要はないと言って久しい。
それでも家の中だけは、ずっと止まったままだ。
リリアンは守られる妹で、エレノアは譲る姉。
その役割だけが、誰も掛け替えようとしない。
馬車に乗り込む前、母はエレノアにだけ聞こえる声で囁いた。
「今夜もあの子をお願いね。大きな夜会だもの。張り切りすぎて疲れてしまうかもしれないでしょう」
去年も一昨年も、リリアンは夜会に出ていた。それでも人々は未だに彼女を“かつて病弱だった令嬢”として優しく扱う。母もまた、その扱いの中に妹を置くことに慣れきっていた。
エレノアは何も答えなかった。
答えなくても、母はそれを了承だと受け取った。
王城の大広間は光に満ちていた。天井から吊るされた燭台の煌めきが、宝石と笑顔を等しく照らしている。
グランチェスター公爵家の姉妹が姿を見せると、あちこちから視線が集まった。けれど先に柔らかなため息を誘ったのは、当然のようにリリアンの方だった。
「まあ、なんて愛らしいの」
「お元気そうで何よりだ。小さなころは本当に心配したものだが」
「春の妖精のようだね」
リリアンは頬を染め、はにかみながら礼を返す。エレノアはその横で微笑み、誰が誰に挨拶すべきか、どの話題を出せば会話が流れるかを見極めて口を添えた。公爵夫人の慈善事業の報告、北方領の収穫、侯爵家の新しい温室。リリアンが言葉に詰まりそうになれば、自然な形で話題を渡す。
「リリアン様は花の名にお詳しいのですね」
若い伯爵令息の問いに、リリアンは一瞬だけ目を泳がせた。去年覚えたはずの花の名前が咄嗟に出てこなかったのだ。
エレノアは間を置かず微笑んだ。
「妹は温室の設計図を見るのが好きなのです。実物より図面を眺めている時間の方が長いくらいで」
「あら、お姉様ったら」
くすくすと笑う声が起こり、場は和んだ。伯爵令息は感心したように頷き、話はそのまま途切れず続いた。
こういうことは珍しくない。
リリアンが疲れた顔をすれば、風通しのよい場所へ自然に誘導するのはエレノアだ。会話が浅く広がりすぎれば、相手の興味に応じて整えるのもエレノアだ。失礼にならない程度に話を切り上げ、次の相手へ繋ぐのもエレノアだ。
最後に残るのは、決まって同じ印象だった。
妹君は何て愛らしいのだろう。
姉君はしっかりしておられて頼もしい。
頼もしい。
その言葉を聞くたび、胸のどこかが冷えた。しっかりしているから譲れる。頼もしいから我慢できる。そういう順番で使われるたび、褒め言葉は鎖に変わった。
「今夜の君はいつにも増して落ち着いて見える」
低い声に振り向くと、アルフレッドがいた。王弟の子であり、エレノアの婚約者だ。端正な顔立ちに、柔らかな物腰。多くの人は彼を優しい人だと評するだろう。
「ありがとうございます」
「その色もよく似合う。君には華やかすぎるものより、そういう落ち着いた色の方が品があっていい」
彼は本心で言っているのだろう。だからこそ、息が詰まった。
その色が誰のために選ばれたのかを、彼は知らない。知らずに褒める。それで済む立場にいる。
アルフレッドの視線は、そのままリリアンへ移った。
「妹君も今夜は本当に見違えた。昔のことを思えば、こうして元気に笑っていられるのは喜ばしいね」
「ええ。本当に」
エレノアは答えた。
それは嘘ではなかった。本当に、喜ばしいことのはずだった。
本来なら、そこで終わるべきなのだ。祝福され、過去は過去として棚に上がり、今のリリアンが今の彼女として扱われるべきだった。
なのに誰もそうしない。
皆が昔のリリアンを抱えたまま、今の彼女を飾り立てている。
そのために、自分だけが昔のままの役目を背負わされている。
しばらくして、母が近づいてきた。舞踏会の最初の曲が始まる直前だった。
「エレノア」
その声音だけで嫌な予感がした。
「今夜の一曲目、アルフレッド様のお相手をリリアンに譲ってちょうだい」
エレノアは瞬きをした。
母は続ける。
「あの子、昔は身体が弱くて、こういう場で最初のダンスなんて夢のまた夢だったでしょう。今夜くらい、花を持たせてあげたいの」
横でリリアンが戸惑ったように目を伏せる。
「お母様、でも……お姉様がよろしければ……」
遠慮がちな声だった。けれどその奥には、差し出されるものは受け取っていいのだという慣れがあった。
アルフレッドも少し驚いたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだね。妹君にとっても記念になるだろう」
胸の奥で、何かが音もなく折れた。
記念になる。
ああ、そうだろう。
今までも、そうやっていくつもの“記念”を譲ってきた。
初めての観劇も、初夏の庭園散策も、学園の祝賀会の席も、母の宝石箱から与えられる装身具も。妹にとっては今しかない機会で、姉にとってはまた今度でいいものだった。
また今度は、一度も来なかったのに。
エレノアは、ゆっくりと息を吸った。
「お断りします」
周囲の音が、ほんの一瞬だけ遠のいた。
母の顔から色が引く。アルフレッドが目を見開く。リリアンが小さく息を呑む。
「……エレノア?」
母が信じられないものを見るように言った。
エレノアは母を見た。それからアルフレッドを、最後にリリアンを見る。
「わたくしは、今夜の一曲目を譲るつもりはありません」
「何を言っているの。リリアンのためにと言っているでしょう」
「ええ。ずっと、そうでしたものね」
声は不思議なほど静かだった。怒鳴りたいわけではない。泣きたいわけでもない。ただ、ようやく口にできるところまで来ただけだった。
近くにいた貴婦人たちが、そっと視線を寄せているのが分かる。
空気が変わる。
事情より先に、譲らない姉という輪郭だけが場に残ろうとしていた。
アルフレッドが低く言った。
「エレノア。少しは妹君を思いやるべきだ」
その言葉で、何かがきれいに切れた。
エレノアは彼を見つめた。
「思いやってきました」
母が息を呑む。
「幼いころ、リリアンが熱を出せば、わたくしの予定はなくなりました。遠乗りも、茶会も、誕生日の祝いも」
誰も口を挟まない。
「妹が社交へ出られなかった間、家の挨拶回りも、礼状も、招待の調整も、わたくしが引き受けました。妹が疲れぬよう場を整え、会話を繋ぎ、失礼が残らぬよう取り繕ってきました」
母の唇が震えた。
「それは、あなたが姉なのだから当然――」
「そうですね」
エレノアは遮った。
「ずっと、そう言われてきました。姉なのだから。あの子は弱いのだから。あなたは我慢できるでしょう、と」
そして、リリアンを見る。
妹の瞳は揺れていた。今まで自分の周りを支えていたものを、初めて名前つきで見せられた顔だった。
「けれど」
エレノアは言った。
「あの子が弱かったのは、昔のことです」
広間の空気が凍る。
「リリアンはもう歩けます。笑えます。踊れます。人前へ出て、褒められて、春の色のドレスを着て、こうして立っていられる」
ゆっくりと、一語ずつ置いた。
「それでもなお、わたくしが引かなければならないのですか」
誰も答えなかった。
母は初めて言い返す言葉を失ったように黙っている。アルフレッドもまた、理解はしたのだろう。けれど理解したことと、それを引き受けることは別だった。
「お姉様」
リリアンの声は小さかった。
「わたくし、そんなつもりでは……」
「ええ、そうでしょうね」
エレノアは微笑んだ。冷たくしたかったわけではない。責め立てたかったわけでもない。ただ、もうこれ以上、自分を差し出したくなかった。
「あなたは、ずっと受け取る側に立たされてきただけ」
リリアンの目に涙が浮かぶ。
その涙に手を伸ばせば、また元に戻ってしまう。大丈夫よと言って場を丸く収めれば、それで今夜も終わってしまう。
だからエレノアは、その場に深く礼をし、踵を返した。
誰かが名を呼んだ気がしたが、振り返らなかった。
その夜、エレノアは広間へ戻らなかった。
控えの間に案内されたあとも、胸の内は不思議なほど静かだった。泣きたくなるかと思っていた。震えるかと思っていた。けれど実際には、長く締めつけられていた帯がようやくほどけたような、鈍い解放感だけが残っていた。
しばらくして、王城付きの侍女が温かい茶を運んできた。
「お加減はいかがですか」
「ええ。ようやく、自分の息で呼吸ができている気がします」
侍女は驚いたように目を瞬かせたが、余計なことは言わず、静かに頭を下げた。
広間の方は、少しざわついているらしかった。廊下の向こうを行き交う足音が、普段より幾分早い。誰かが場を繕おうとして、うまくいっていない音だった。
帰りの馬車は別になった。
母は最後まで顔を見せず、アルフレッドからも言葉は届かなかった。代わりに、屋敷へ戻ったエレノアを待っていたのは、夜も更けてから届いた一通の手紙だった。
差出人はアルフレッド。
封を切れば、中身は驚くほど薄かった。
――今夜の件は、互いに少し冷静になる時間が必要だと思う。
――妹君も深く傷ついている。
――君らしくない振る舞いだった。
そこまで読んで、エレノアは手紙を畳んだ。
君らしくない。
結局、彼にとっての“君らしさ”とは、静かに譲り、場を乱さず、誰かのために身を引く姿のことだったのだろう。
ならば、もうその言葉に縛られる理由はない。
翌朝、母は珍しく早い時間にエレノアの部屋を訪れた。
「昨夜のことだけれど」
開口一番、謝罪ではなかった。
「あの場で言うべきことではなかったわ。王城で恥をかいたのよ」
やはり、と思った。エレノアは立ったまま母を見た。
「わたくしが恥をかいたことについては、お考えにならなかったのですね」
母は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに眉を寄せた。
「そういう言い方をしているのではありません。家には家の都合があるでしょう」
「家の都合」
エレノアは小さく繰り返した。
「あの子が立てるようになってからも、ずっと昔のまま扱い続けることがですか」
母の顔がこわばる。
「あなたには分からないのよ。あの子があれほど弱っていた時期を見ていたら、簡単に手を離せるはずがないでしょう」
怒りの形をしているが、その奥にあるものは執着だ。母はまだ、あの頃の寝台の脇に座ったままなのだ。熱を測り、息の音に耳を澄ませ、少しでも顔色が悪ければすぐ抱え上げる、その位置から動けていない。
だが、その場所に家族全員をいつまでも縛っていていいわけではない。
「分かります」
エレノアは静かに言った。
「けれど、お母様が手を離せないことと、わたくしが一生引き立て役でいることは、別の話です」
母の唇がきつく結ばれた。そのとき扉が叩かれた。
入ってきたのはリリアンだった。化粧も薄く、髪もきちんと整えきれていない。昨夜ほとんど眠れなかったのだろう。
「お母様、少しだけ……お姉様と二人で話させてください」
母は不満を滲ませたものの、娘二人の空気に押されるように部屋を出ていった。
扉が閉まると、リリアンはしばらく俯いたままだった。
「……わたくし、昨日まで、自分が何をしてもらっていたのか、ちゃんと分かっていなかったのだと思います」
細い声だった。
「お姉様が隣にいてくださるのが、当たり前すぎて」
エレノアは答えずに待った。
「昨夜、お姉様がいなくなったあと……伯爵夫人に同じお返事を二度してしまいました。何のお花がお好きかと聞かれたのに、ひとつ前の温室の話を続けてしまって」
リリアンはそこで言葉を切った。指先がきつくドレスの布を摘んでいる。
「それから、子爵令嬢に少しお休みになった方がと声をかけられたのですけれど、断るべきか下がるべきか分からなくて……ただ立ってしまって」
昨夜、広間のざわめきが妙に長引いていた理由が、それだけで見えた。
「お母様がこちらを見てくださらないかと探してしまいました。お姉様がいつもしてくださっていたことを、自分でひとつも決められなかったのです」
ようやく顔を上げた目は、赤く腫れていた。
「お母様がそう言うから。皆がそう扱うから。わたくしも、それでよいのだと思っていました」
エレノアは黙ってその顔を見ていた。
「でも、あれは、お姉様がずっと支えてくださっていたからだったのですね」
遅い理解だと思わなかったわけではない。けれど、初めて自分の足元を見た声だった。
エレノアはようやく口を開いた。
「あなたが昔、苦しかったのは本当よ」
リリアンの肩が揺れる。
「だから、わたくしは引いたし、守ろうとも思ったわ。それ自体を悔やんではいないの」
「お姉様……」
「でも、もう終わっていい役目だったのよ」
エレノアの声は穏やかだった。
「あなたが立てるようになったとき、本当は、あなた自身の足で立つべきだった。わたくしも、あなたの隣で下がるのをやめるべきだった」
リリアンは目元を押さえた。
「では、わたくしはこれから、どうすれば……」
「まずは」
エレノアは少しだけ間を置いた。
「誰かが整えてくれなくても立っていられるようになりなさい」
突き放しではない。初めて妹へ渡す、甘やかしではない言葉だった。
「会話に詰まったら、自分で考えるの。困ったときに誰かが話題を繋いでくれると思わないこと。お母様があなたのためだと言って何かを用意しても、それが誰の負担の上にあるのか考えること。そして、本当に必要なものだけを自分で選びなさい」
リリアンは涙を浮かべたまま、小さく頷いた。
「……はい」
「それができるようになったら、そのとき初めて、わたくしたちは姉妹として話せるのかもしれないわ」
沈黙は重くはなかった。
痛みのあとにしか生まれない静けさが、部屋の中に満ちていた。
やがてリリアンは、深く頭を下げた。守られる妹としてではなく、自分の足で謝ろうとする一人の娘として。
部屋を出ていく背を見送りながら、エレノアは窓の外へ目を向けた。庭では、朝の風に白い花が揺れている。
これまでなら、あの花の前に立つのはいつも妹で、自分は少し後ろに控えていた。
もう、そうしなくていい。
そのことがまだ少しだけ痛く、それでも胸のどこかを軽くした。
婚約解消の話は、思っていたより早く来た。
その日の昼過ぎ、王城からの使者がグランチェスター家を訪れ、アルフレッドの名で面会を求めてきたのだ。応接間へ向かう前、母はいつになく硬い顔でエレノアを呼び止めた。
「余計なことは言わないでちょうだい」
その言葉に、かえって体の芯が冷えた。
余計なこと。母にとっては、昨夜エレノアが口にしたすべてがそうなのだろう。自分の痛みも、積み重ねも、譲らされてきた年月も、家の都合を乱すものにすぎない。
応接間には、アルフレッドが一人で待っていた。本来なら公爵家当主が中央に座るべき場だったが、父はまだ領地から戻っていない。王都と領地を結ぶ早馬でも、戻るには数日かかる。今この屋敷の内向きの顔は、やはり母が引き受けるしかなかった。
アルフレッドは昨夜と同じ端正な顔立ちをしているのに、今日はどこか疲れて見えた。だが、その疲れを見て気遣ってやろうという気持ちは、もう起きなかった。
母が先に口を開く。
「わざわざお越しいただいて申し訳ありませんわ。昨夜のことは、娘も少し気が立っていたようで――」
「いいえ」
アルフレッドがそれを遮った。柔らかな声だったが、迷いを含んでいた。
「本日は、その件について正式にお話ししに参りました」
母の背筋が強張る。エレノアは黙って彼を見た。
アルフレッドは一度だけ視線を伏せ、それからまっすぐこちらを向いた。
「エレノア嬢。昨夜のことを受けて、私は婚約について考え直すべきだと思いました」
驚きはなかった。昨夜の時点で、彼の目が向いていたのはエレノアの痛みではなく、場が乱れたという事実の方だった。
母が青ざめたまま口を挟む。
「それは、いくら何でも早計ではありませんか。昨夜のことは誤解も――」
「誤解ではございません」
アルフレッドは母ではなく、エレノアに向かって言った。
「私は昨夜、あなたがどれほど不満を抱えていたのかを知りました。けれど同時に、あのような場であのように振る舞う方と、今後とも歩めるかと問われれば、自信が持てなくなったのです」
その言葉はよく整っていた。だからこそ、何も残らない。
穏やかな水面を選んで歩く人なのだと、エレノアは思った。誰かが沈められていても、水面が波立たなければそのまま通り過ぎられる人。
エレノアは母を見ず、アルフレッドだけを見た。
「ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
彼は無言で頷いた。
「わたくしは昨夜、あなたに引き留めてほしかったわけではありません」
アルフレッドの喉がかすかに動く。
「ただ、見てほしかっただけです。妹ではなく、昔の事情でもなく、家の都合でもなく、わたくしを」
そこで一度、言葉を切った。
「けれどあなたは、最後まで“場”の話しかなさいませんでした」
アルフレッドの表情が固まる。
「お母様は妹のためだとおっしゃった。リリアンはそんなつもりではなかったと泣いた。では、あなたは何だったのですか」
部屋が静まり返る。
「少なくとも、わたくしの味方ではなかった」
母が息を呑んだ。
エレノアの声は静かなままだった。
「あなたが惜しんだのは、わたくしではありません。わたくしが黙って譲れば、何事もなく収まったはずの場でしょう」
「……エレノア嬢、それは」
「違いません」
アルフレッドの言葉を、エレノアは切った。
「あなたが好きだったのは、静かで、聞き分けがよくて、誰の顔も立てる婚約者です。母にも逆らわず、妹にも譲り、あなたの前でも品よく微笑んでいる女です」
視線を逸らさない。
「でもそれは、わたくしではない」
応接間がさらに冷えた。
「あなたは、わたくし本人ではなく、都合のいい置き物を愛していただけです」
アルフレッドの顔色が変わった。
「昨夜、わたくしは初めて、自分の痛みを口にしました。それなのにあなたが真っ先に気にしたのは、わたくしがどれほど長く押しつけられてきたかではなく、あの場が乱れたことだった」
エレノアは一歩も引かない。
「なら、婚約を解くのは当然です。人としてのわたくしを煩わしいと感じる方と、この先を歩くつもりはありません」
長い沈黙のあと、アルフレッドが低く言った。
「……そこまで言われるとは思いませんでした」
「わたくしも、ここまで言わなければ伝わらないとは思っておりませんでした」
「私はただ、穏便に――」
「ええ。いつもそうです」
その一言で、アルフレッドは黙った。
「誰かが我慢して穏便に済むなら、それでよいのでしょう。波が立たず、見苦しくなく、体裁が保てるなら」
エレノアは淡々と続けた。
「その“誰か”がずっとわたくしだったことには、ついに最後まで気づかなかった」
アルフレッドの唇がわずかに動く。だが、反論は出てこない。
「あなたは優しい方だと思っていました」
その言葉に、彼の肩がかすかに揺れた。
「けれど違ったのですね。あなたが守りたかったのは、傷ついている人ではなく、波立たない場だけだった」
そこで初めて、アルフレッドは目を伏せた。
「……そうかもしれません」
「ええ。そうです」
言い切ってから、エレノアは静かに息を吐いた。
「ですから、これで終わりにいたしましょう。ようやく、よく分かりましたから」
形式的な確認が終わると、アルフレッドは立ち上がった。去り際、一瞬だけエレノアの方を見たが、何も言わなかった。言えることがもう残っていなかったのだろう。
扉が閉まった途端、母が立ち上がる。
「あなた、自分が何をしたのか分かっているの?」
「ええ」
「王家との縁を、自分の感情だけで潰したのよ」
「いいえ」
エレノアは静かに返した。
「潰したのは、ずっと前からです。わたくしを一人の娘ではなく、都合のよい部品として扱い続けた時点で」
母は言葉を失い、怒りに顔を歪めた。だが、その怒りもまた、今さらだった。
「しばらく別邸へ移ります」
エレノアは続けた。
「領地の西の館を使わせてください。もともと春から帳簿の整理に入る予定でしたから、不自然ではないでしょう」
母が眉を上げる。そこまで話が進んでいるとは思わなかったのだろう。
「勝手な真似を――」
「今さら止められるとお思いですか」
その一言で、母は黙った。
脅しではない。ただ事実だった。もう戻れない。戻るつもりもない。
部屋を出ると、廊下の向こうにリリアンが立っていた。おそらく話の途中から聞いていたのだろう。顔色は悪かったが、今までのように誰かの後ろへ隠れはしなかった。
「……お姉様」
「聞いていたのね」
「はい」
リリアンは唇を結び、それからかすかに頭を下げた。
「引き留める資格は、わたくしにはないと思います。でも……」
言葉が途切れる。
エレノアは待った。以前ならここで続きを拾っていただろう。けれど、もうしない。
リリアンはひとつ息を吸い、震える声のまま続けた。
「でも、お姉様が出ていかれるのは、寂しいです」
ようやく出てきたその一言は、取り繕われていなかった。守られる妹としてではなく、ただ姉を失いたくない一人の娘としての言葉だった。
エレノアはその顔をしばらく見つめた。
「寂しいと思えるなら、まだ大丈夫よ」
リリアンが目を見開く。
「人は、当たり前だと思っているものには、寂しいとは言わないもの」
それだけ告げて、エレノアは妹の横を通り過ぎた。
荷造りは早かった。もともと必要なものは多くない。数冊の本と、帳簿の写し、自分で選んだ地味ではない色のドレスを二着。それから幼いころから使ってきた小さな手鏡だけを箱に収める。
夕刻になって、領地から父の返書が届いた。封蝋には見慣れた公爵家の紋章が刻まれている。開けば、父らしい簡潔な文字が並んでいた。
――西の館の使用を許可する。
――話は戻ってから聞く。
――必要な人手は手配させる。
たったそれだけだった。
責めもせず、庇いもせず、まず判断だけを置く。その書きぶりに、父らしさがあった。いつも一歩遅い人だと、エレノアは思った。だが今、その一歩がようやくこちらへ向いたのだとも分かった。
見送りがあるとは思っていなかったが、馬車に乗り込むとき、正面階段の上には母ではなくリリアンだけが立っていた。桃色でも白でもない、落ち着いた藤色のドレスに着替えている。誰かに映えるためではなく、自分に似合うものを選ぼうとして、まだ少し迷いの残る色だった。
それでも、悪くないとエレノアは思った。
リリアンは何も言わなかった。ただ、今度は逃げずにまっすぐこちらを見ていた。
エレノアもまた、黙ったまま軽く頷く。
それだけで十分だった。
馬車が動き出す。
窓の外で、見慣れた屋敷が少しずつ遠ざかっていく。あの家で過ごした年月が軽かったとは思わない。譲ったものも、飲み込んだ言葉も、決して少なくはなかった。
それでも今、胸の内にあるのは喪失よりも、ようやく空いた場所の広さだった。
婚約者を失ったのではない。
引き立て役として生きる未来を、手放したのだ。
そう思ったとき、エレノアはそっと窓に映る自分の顔を見た。
そこにいるのは誰かの隣で光を調整する娘ではない。少しだけ疲れていて、それでも確かに前を見ている、一人の女だった。
西の館に着くころには、空はゆるやかに暮れ始めていた。新しい生活は、きっと楽ではない。噂も立つだろう。母は怒り、アルフレッドは黙り、社交界は好き勝手に語るはずだ。父も戻れば、いくつかは問うだろう。
けれどもう、それでいい。
館の女中に案内されて与えられた部屋へ入ると、エレノアは最初に、箱のいちばん上にしまっておいた深い青のドレスを取り出した。屋敷ではあまり着る機会のなかった、自分で選んだ色だ。
それを窓際の衣桁に掛ける。
灰青でも桃色でもない、その青が夕闇の中で静かに輪郭を持った。
次に帳簿の写しを机へ置き、表紙を開く。白い紙の上へ、明日やるべきことをひとつずつ書き出した。西の館の収支、倉庫の確認、春の織物の在庫、庭師との打ち合わせ。
ペン先が進むたび、紙の上に自分の明日が増えていく。
誰かを美しく見せるために半歩下がるのではなく、自分の歩幅で進む日々が、もうここから始まっていた。
今回は、病弱だった妹のために「譲る側」に置かれ続けた姉の話でした。
誰かを大事にすることと、誰か一人にずっと我慢を押しつけることは、やっぱり別だよなと思いながら書いていました。
妹が悪い、母が悪い、と単純に切る話ではなくて、役割が固定されたまま誰も見直さなかった結果、最後に姉だけが苦しくなっていた、という形を書きたかった話です。
コンパクトにまとめるつもりだったのですが、気がつけばこの有様です。
エレノアが最後に手放したのは婚約者そのものというより、引き立て役として生きる未来だったのだと思います。
少しでも何か残るものがあれば嬉しいです。
読んでくださってありがとうございました。




