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白影

 砂埃と熱気に満ちたグラウンドから、集会テントの影へと逃げ込んで数分。


 そこはまるで別世界だった。外の喧騒は向こう側に押しやられ、拡声器の指示や歓声は、遠い浜辺に砕ける波音のように、輪郭を失って耳に届く。


 テントの中はひんやりとしていて、微かに機械油と紙の匂いが混じっている。

 簡易の机と椅子、その中央には、山のようなスコア表と、それに黙々と向き合う志織の背中があった。


「……正直、圧倒された」

 ぽつりと漏らすと、志織がペンを動かす手を止めて小さく笑った。


「分かるよ。ああいうの、慣れてないと眩しいよね」

「眩しい、っていうか……」  

 言葉を探す。


「なんか、全部が一つにまとまってて。見てるだけなのに、変に高揚して」

「うん」

 志織は短く応じて、ほんのわずかに視線を上げる。  

 競技の方を見ているのか、それとも、さっきまでの記録の続きを頭の中で追っているのか、分からない。


「……男子たち、かっこいいよね」

 一瞬、言葉に詰まった。  でも、それだった。  

 軽い調子なのに、妙に正確で、逃げ場のない言い方。  

 今の空気を、そのまま言葉にしたみたいで。


「……とっても!」

 私は、迷わず答えた。

 志織は、ほんの少しだけ目を細める。

「だよね」

 それ以上は言わなかった。

 手元の端末と、厚みのあるノート。


 志織は視線を落としたまま、迷いのないペン運びで数字を書き込んでいる。

 私が隣に立っても、その動きは一切乱れない。

 まるで、私がそこにいないかのようだった。


 並んだ数字は、規則正しく、整然としていた。

 それは「人」の記録というより、部品の稼働ログに近い印象を受ける。


「……すごいね、これ」

 思わず、声が漏れた。

「みんなの、スコア?」

 覗き込む私に、志織はようやく顔を上げた。

 その瞳は涼しく澄んでいて、少しも疲れを見せていない。


「うん、そう。連携の効率、負荷への耐性。個々の数値と、集団としての安定度」

 彼女は端末を軽く示しながら言った。


「こうやって俺たちが頭を使っているから、男子たちも安心して、身体を動かすことだけに集中できるでしょ?」

 その言葉は、さっき私がグラウンドで感じた直感と、ぴたりと重なった。

 誰かが合図を出す前に、誰かが動く。

 考える前に、役割が身体に流れ込むようなあの光景。

 私は、自分の中でようやく形になりかけた考えを、確かめるように口にした。


「東側は……先に『型』を渡す世界なんだね。身体を動かして、役割を覚えて、その後に意味を知る。……さっきの競技を見ていて、そう思ったの」

 志織のペン先が、ほんの一瞬、止まった。

 紙の上に、微かな沈黙が落ちる。


「……驚いた。さすが外を知っていると、観察眼が鋭いね」

 そう言って、彼女は小さく息をついた。


「確かに、このシステムは俺たちに迷う隙を与えない。それが、東側なりの『優しさ』だからね」

 ノートを閉じ、志織はふいに視線を遠くへ投げた。

 テントの外、白く揺れる陽炎の向こうを見ている。


「じゃあ……ちょっとした雑談として聞いてくれない?」

 声の調子が、わずかに変わる。

「菜月ちゃん、あなたはどっちが正しいと思う?」


「……え?」

 志織が私ではなく、テントの外の方を指差して言う。


「夏樹ちゃんのこと」

その名前が出た瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。

「彼、今、進路で迷っているみたい。……俺から見れば、彼は今、東側の慣習の中で息苦しくて、もがいているように見えるんだよね」

言葉を、失った。

 夏樹が、迷っている?

あんなに、迷いなく動いていたのに?

 志織の声は淡々としているのに、その一言一言が、静かな波紋となって私の内側に広がっていく。


 彼女は、彼が抱える「不具合」を、最初から全部見抜いているのだ。

「中にいるのが幸せなのか、外へ出ようとするのが正解なのか」


 一拍、間を置いて。

「……菜月ちゃん、あなたなら――」

 一瞬、言葉を探すように視線を落としてから、志織は続けた。


「……かく言う俺もさ。進路とか関係なく、この慣習に戸惑うことは、正直あるんだ」

 小さく肩をすくめて、彼女は苦笑する。

「特にね、菜月ちゃん。あなたを見ていると」

 一拍。

「もし俺が……もし俺も、西側の――」


 志織は、そこで言葉の先を飲み込んだ。

 そして、いつもの穏やかな、けれど何もかもを見透かしたような微笑みを浮かべる。

 そのまま、私の背後へ向けて、小さく手を振った。

 振り返ると、そこには泥にまみれ、顔を真っ黒にした夏樹が立っていて、彼もこちらに気がついたようだ。


 さっきまで、あの「迷いのない型」の一部だった彼とは別人みたいに、少し気恥ずかしそうで。

 それでも、私を見つけた瞬間、心底ほっとした顔で、ぶんぶんと大きく手を振っている。


 志織の問いへの答えは、私の喉の奥で固まったままだ。

 彼が抱えているという「迷い」の正体も、彼に渡すべき「順番」の正解も、私はまだ、何ひとつ持っていない。


 それでも。

 泥だらけの手を振る彼を、ただ無視することなんて、できなかった。



――正直、きつかった。

 私は、泥だらけの手を振りながら、胸の奥でそう思っていた。

 息が切れているのは走ったせいだけじゃない。

 身体は、ちゃんと動いていた。言われた通りに、教えられた通りに。


 型は完璧だったはずだ。

 なのに。

 競技の最中、何度か、ほんの一瞬だけ、反応が遅れた。

 次に動くべき理由が、遅れて追いついてくる。

 身体が先に行って、意味が後からやってくる。


(……これで、いいんだよな?)

 誰に聞くでもなく、答えも期待せず、そんな疑問が浮かぶ。


 すぐに振り払った。

 考えるな。動け。

 それが、ここで正しいやり方だ。


 それでも、テントの方に目を向けた瞬間、菜月の姿を見つけたとき、胸の奥がふっと緩んだ。

 理由は分からない。


 ただ、あそこにいると分かるだけで――

 私は、思いきり手を振った。

 子どもみたいだと思いながら、それでも止められなかった。

「菜月ちゃん!」



「夏樹ちゃん!」

 私は志織から視線を外し、駆け出すようにして手を振り返す。

背後で、風が揺れた。

 志織はその光景をただ、感情の読み取れない静かな瞳で見つめていた。

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