『索引にない書架』
【1. 空白の棚】
市内の小さな図書館は、平日の昼過ぎということもあり、静まり返っていた。
大学生の「椎名 結月」は、課題レポートの資料を探していた。
それはごく普通の午後のはずだった。
だが、本を探すために閲覧フロアの隅へ足を運んだ時、ふと違和感を覚える。
棚の番号が一つ飛んでいた。
108 → 109 → … → 111
確かにそこに、「110」の棚だけが存在しない。
いや、ないはずだった。
彼女がもう一度そこを見つめ直すと、
視線の奥に、何かが“ある気がする”空間が見えてくる。
まるで “誰かが目を逸らしたくなるように、
そこだけ空気の密度を変えている” かのように。
【2. 書架の奥】
その棚と棚のわずかな隙間に、細い通路があることに気づく。
けれど、不自然だ。
通れるはずのない幅。誰が使うのか分からない作り。
でも、不思議と**「入れる」気がしてしまう。**
結月は迷った末、そっと身体を差し入れた。
するりと、何の抵抗もなく、空間に吸い込まれる。
数歩進んだ先にあったのは――
もう一つの図書空間だった。
蛍光灯は古びていて、館内放送も聞こえない。
どこか昔の図書館のような、ざらついた匂いと紙の湿り気がある。
それなのに、妙に懐かしかった。
小学校の図書室のようでもあり、通ったことのない誰かの記憶のようでもある。
【3. 本たち】
そこには、奇妙な本ばかりが並んでいた。
・タイトルが全て「無題」になっている本
・中身が全ページ「現在の時刻」で構成されたノート
・同じ名前の著者が書いた、異なる生年月日の自伝
・一冊だけ、明らかに自分の筆跡で書かれたノート
結月がそのノートを開くと、中にはこう書かれていた。
「目が覚めたら、私は図書館の“外側”にいた」
「思い出せない。いつからここにいるのか、どこまでが夢だったのか」
「私が書いているこの文章を、“次の誰か”が読むことを願っている」
ページの最後には、自分のサインが記されていた。
しかも、つい最近の日付で。
【4. 静寂の閲覧席】
書架の奥には、一つだけ閲覧席があった。
机の上には閉じたままの本が置かれていて、
座面には、まるで“誰かがつい先ほどまで座っていた”ような温もりがある。
そこに座ると、視界が少しだけ滲んだ。
そして、見えた。
閲覧室の奥、古いガラス越しに、誰かがじっとこちらを見ている。
でも、立ち上がって確認しても、そこには誰もいない。
結月はただ、静けさと、かすかに漂う古紙の香りの中で、
**「自分はここにいたのか、それともまだ来ていないのか」**
分からなくなっていく。
その時、背後で本が一冊――音もなく開かれた。
【5. 日常の音】
気づけば、いつの間にか通路の入口に戻っていた。
振り返ると、もう「110」の書架は見えない。
あの狭い隙間は、最初から存在しなかったように消えていた。
結月は元いた閲覧席に戻り、資料をめくった。
日常の音が戻ってくる――
遠くでカートを押す音
低く響く空調の音
職員が本を整理するささやかな声
でも、ひとつだけ戻らないものがあった。
彼女の手帳の中に、見知らぬページが一枚増えていた。
図書館の書架に立ち入ったこと、
誰かのノートを読んだこと、
誰かに見られていたこと。
それは、誰の筆跡でもない。
でも、“自分”が書いたような気がする。
図書館は、本来、
知識と記憶を積み上げる空間であり、
個人の過去が匿名に収束されていく場でもある。
けれどその一角には、
**誰にも借りられなかったまま埃を被った“誰かの現実”**が
眠っていることがある。
あなたの行きつけの図書館にも、
ふと、棚番号が飛んでいる区画はないだろうか?
その奥に、
あなたのことを先に知っている本が置かれているかもしれない。




