『いつもの家』
【1. 帰宅の午後】
午後3時すぎ。
大学の講義を終えた「吉野 紗希」は、
いつものように帰宅した……はずだった。
電車に揺られ、乗り換え、住宅街の坂を上がり、
見慣れたポスト、玄関、ドアの鍵。
すべてが“いつも通り”で、
靴を脱いだときも、家の匂いがしていた。
だけど――何かが、ほんの少しだけ、違っている。
玄関マットの柄が違う。
時計の音が聞こえない。
そして、なによりも**“この家の間取り”が、どこかおかしい。**
【2. 親しげな“家族”】
リビングに行くと、
ソファに座っていた両親らしき人たちが、
笑顔でこちらを見た。
「おかえり、紗季」
「今日は早かったね」
口調も声も、親しげで、優しい。
だけど、顔がぼんやりとしか見えない。
まるで、夢の中の誰かみたいに、
近づこうとしても、焦点が合わない。
「ただいま」と言った自分の声も、
少し他人のような響きをしていた。
【3. 誰もいない“自分の部屋”】
2階の自室へ上がる階段も、踏み心地が違う。
歩くたび、“少しだけ深く沈む”ような感覚。
ドアを開けた自分の部屋は、
確かに昔使っていた家具がそのままだった。
だけど、それは**「数年前の自分の部屋」**だった。
現在使っているPCも、ベッドカバーもない。
なのに、机の引き出しには最近使ったノートがしまわれていた。
違和感に気づきながらも、
なぜか「まあ、そういうこともあるか」と思ってしまう。
“記憶の深いところ”が、すでにこっち側の理屈に引っ張られている。
【4. 洗面所の鏡】
水を飲もうと、1階の洗面所に行く。
廊下の照明が少し暗い。
壁にかけられた写真立ての顔も、やはりはっきりしない。
蛇口をひねって手を洗ったとき、
ふと、洗面台の鏡に目がいった。
そこに映った“自分”――
面影はあるのに、顔が違っていた。
まぶたが少し重く、
口元が下がり、どこか他人のように感じる顔。
なのに、鏡の中の“その顔”は、じっとこちらを見つめたまま、
わずかに口角を上げて、にやりと笑った。
【5. 名前のズレ】
もう一度、自分の部屋に戻る途中、
壁の家族写真が目に入る。
そこには、見知らぬ顔の家族たちと一緒に、
“今の自分の顔じゃない少女”が笑っていた。
下に書かれた名前:
「さきえ 7さい」
「さきえ……?」
自分の名前は「紗季」のはず。
でも、なぜか“それも合っている気がする”という、奇妙な納得感。
その瞬間、リビングから声が聞こえた。
「さきえー? おやつできたよー」
柔らかい声。
でも、その発音は**“この家にいる誰かの名前”**を呼んでいた。
【6. 書斎の奥】
もう一つ、扉があったことに気づいた。
本来なら、そんな場所には扉なんてなかったはずの廊下の端に、
古い木製の扉が立っている。
開けると、埃っぽい書斎のような空間。
壁にはびっしりと、**見知らぬ名前の住人たちの“記録”**が残されていた。
「春川 美咲:滞在期間 6年」
「槙野 さきえ:滞在期間 3年」
「吉野 紗希:滞在期間 不明」
「次回入居予定:未記載」
その中に、自分と同じ字の名前が混じっている。
(……ここは、いったい、どこの家?)
【7. ドアの音】
ふと背後で、玄関の扉が開く音がした。
それと同時に、1階にいるはずの“家族”たちの動きが止まる。
話し声が急に消え、空気が濃くなる。
「帰ってきた……? 誰が?」
足音が近づいてくる。
リビングを通って、廊下を渡り、階段をのぼってくる。
(……誰かが、この家の“本当の住人”なんだ)
そのとき、どこかから声が響いた。
「あなた、もう“出て行く時間”よ」
それは、洗面所の鏡の中の自分――
“違う顔の自分”の声だった。
【8. 白昼夢の出口】
気づくと、目の前の空間がぐにゃりと歪み、
壁も、床も、家具も、見たことのない速度で古びていく。
自室の扉を開けたときには、
もうそこは何もない空き部屋だった。
埃と、微かに焦げたような匂いだけが残っていた。
そして玄関を出たとき、
空はもう夕方で、
見慣れた現実の町並みが、目の前に戻ってきていた。
スマホを見ると、通知も、時間も、まったく動いていなかった。
だけど、ポケットの中に、
白くにじんだ紙の写真――“さきえ”と書かれた少女の笑顔が入っていた。
「家」という場所は、
人の記憶や安心が染みつく、いちばん個人的な空間。
だけどそれは裏を返せば――
いちばん深く侵食されやすい場所でもある。
知らないはずの家なのに、懐かしい。
見覚えがないのに、安心する。
それは、あなたの“記憶”じゃなくて、
“誰かの記憶にあったあなた”が、もうそこに住み始めてしまった証かもしれない。
もしある日、家の洗面台の鏡が、
いつもよりほんの少しだけ歪んで見えたなら――
その時は、気をつけて。
今のあなたが、「本当の住人」かどうか、確かめてくる者がいるから。




