『深夜零時の自販機』
【1. 星を見に行く夜】
仕事を終えて帰る頃には、
時計の針がすでに日付をまたいでいた。
大供 仁悟――二十四歳、製造業勤務。
夜勤明けの疲れた体を引きずりながら、
彼は家へ帰る前にいつもの空き地へ向かった。
そこは、町の外れの丘。
星を見るにはちょうどいい。
街灯の明かりが届かず、静かに世界が沈んでいる。
彼の趣味は天体観測。
学生の頃から、仕事帰りに空を見上げるのが習慣になっていた。
だが、その夜は星が見えなかった。
夜空一面に、薄い雲の膜がかかっていた。
「……残念」
ため息をついて振り返ると、
そこにひとつだけ、赤い光がぽつんと灯っていた。
丘の下、古い自販機だった。
【2. 赤いランプ】
その自販機は、ずっと前からそこにあった。
誰が設置したのかも、いつからあるのかも分からない。
街の人は「夜中でも買える、古いけど壊れない自販機」と言っていた。
だが、誰が補充しているのかは誰も見たことがなかった。
仁悟は喉が渇いていた。
ポケットに小銭を探し、
百五十円を投入する。
ウィーン……と音がして、ランプが一瞬強く光った。
だが、缶は落ちてこなかった。
「……詰まったか?」
屈んで覗き込んだ瞬間、
取出口の奥に何かが光った。
赤黒い液体――いや、それは光ではなく、映像だった。
見覚えのある工場の中。
仁悟が毎日立っている持ち場。
そして、疲れ切った自分の背中。
「……なんだ、これ」
画面のように揺らめく自販機の窓。
映し出されているのは、間違いなく“今の自分”の映像だった。
【3. 自販機の女】
背後から声がした。
「よく頑張ってるね、大供さん」
振り返ると、そこに女が立っていた。
赤黒いワンピース。
足元は裸足。
そして――
顔が、はっきりしなかった。
目鼻のある場所が、常に少しだけズレて見える。
「誰……ですか」
「この自販機の中で働いてるの。
あなたが飲み物を買うたび、誰かの“夜”を補充しているの」
意味が分からなかった。
「今夜は特別。
あなたが欲しいもの、何でも出せるわ」
仁悟は、言葉を失った。
自販機のランプが青から赤に変わり、
女の顔も同じ色に照らされた。
「ただし、代金は“思い出”です」
【4. 記憶のドリンク】
自販機の前に、
ひとつの缶がコトリと落ちた。
ラベルには何も書かれていない。
ただ、白い缶に小さく「memory」とだけ刻まれていた。
仁悟は無意識にそれを拾い上げた。
「飲めば、楽になるわ」
女の声が近くで囁いた。
「つらいことも、眠れない夜も、全部」
缶は冷たくも温かくもなかった。
手にした感触が曖昧だ。
指先が震えた。
――飲みたくない。
そう思ったのに、唇が勝手に動いた。
プシュ。
開ける音と同時に、
冷たい霧が顔にかかった。
一口、飲んだ。
口の中に流れ込んだのは、液体ではなく、
記憶だった。
夜勤の工場。
流れ作業の音。
無表情で機械を見つめる自分。
上司の声。
そして、何よりも――
小さな頃に亡くした母の声。
「――仁悟、星がきれいだね――」
涙が勝手に流れた。
だが、次の瞬間、頭の中から母の顔が消えていた。
【5. 支払われたもの】
缶を落とした自販機の中から、
また声がした。
「代金、確かにいただきました」
女の姿はもうなかった。
代わりに、自販機のガラスに自分の顔が映っていた。
だが――どこか違う。
目の奥に、赤い光が宿っていた。
仁悟は缶を落とした。
転がった缶は、霧のように消えた。
「……母さん?」
呼びかけても、声は返ってこない。
記憶の中にいたはずの母の姿も、もう思い出せなかった。
自販機の赤いランプが、一度だけ明滅した。
まるで「取引完了」とでも言うように。
【6. 翌朝】
朝。
仁悟は、自宅のベランダで目を覚ました。
手には、空の缶が握られていた。
白い缶。
何のロゴもない。
夜の出来事は夢だったのかもしれない。
だが、頭の中が妙に静かだった。
何か大事なことを忘れている気がする。
工場へ向かう途中、
ふと丘の方を見た。
昨夜の自販機は、もうなかった。
空き地には、
赤い光を反射する金属片だけが落ちていた。
仁悟はそれを拾い上げた。
掌の中で、小さな電子音が鳴った。
――「ありがとうございました。またどうぞ」
風が止まり、背筋が冷えた。
自販機は、便利で正確な機械だ。
代金を入れれば、必ず対価が出てくる。
けれど、真夜中に灯るその赤いランプは、
“等価交換”では済まないものを欲しがるときがある。
眠れぬ夜に、
ふと立ち寄った自販機で、
あなたは何を買うだろうか。
そしてその代金に――
何を支払うつもりだろうか。




