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境界奇譚  作者: otomo2gou
12/16

『深夜零時の自販機』

【1. 星を見に行く夜】


仕事を終えて帰る頃には、

時計の針がすでに日付をまたいでいた。


大供おおとも 仁悟じんご――二十四歳、製造業勤務。

夜勤明けの疲れた体を引きずりながら、

彼は家へ帰る前にいつもの空き地へ向かった。


そこは、町の外れの丘。

星を見るにはちょうどいい。

街灯の明かりが届かず、静かに世界が沈んでいる。


彼の趣味は天体観測。

学生の頃から、仕事帰りに空を見上げるのが習慣になっていた。


だが、その夜は星が見えなかった。

夜空一面に、薄い雲の膜がかかっていた。


「……残念」


ため息をついて振り返ると、

そこにひとつだけ、赤い光がぽつんと灯っていた。


丘の下、古い自販機だった。


【2. 赤いランプ】


その自販機は、ずっと前からそこにあった。

誰が設置したのかも、いつからあるのかも分からない。


街の人は「夜中でも買える、古いけど壊れない自販機」と言っていた。

だが、誰が補充しているのかは誰も見たことがなかった。


仁悟は喉が渇いていた。

ポケットに小銭を探し、

百五十円を投入する。


ウィーン……と音がして、ランプが一瞬強く光った。


だが、缶は落ちてこなかった。


「……詰まったか?」


屈んで覗き込んだ瞬間、

取出口の奥に何かが光った。


赤黒い液体――いや、それは光ではなく、映像だった。


見覚えのある工場の中。

仁悟が毎日立っている持ち場。

そして、疲れ切った自分の背中。


「……なんだ、これ」


画面のように揺らめく自販機の窓。

映し出されているのは、間違いなく“今の自分”の映像だった。


【3. 自販機の女】


背後から声がした。


「よく頑張ってるね、大供さん」


振り返ると、そこに女が立っていた。

赤黒いワンピース。

足元は裸足。

そして――

顔が、はっきりしなかった。


目鼻のある場所が、常に少しだけズレて見える。


「誰……ですか」


「この自販機の中で働いてるの。

 あなたが飲み物を買うたび、誰かの“夜”を補充しているの」


意味が分からなかった。


「今夜は特別。

 あなたが欲しいもの、何でも出せるわ」


仁悟は、言葉を失った。

自販機のランプが青から赤に変わり、

女の顔も同じ色に照らされた。


「ただし、代金は“思い出”です」


【4. 記憶のドリンク】


自販機の前に、

ひとつの缶がコトリと落ちた。


ラベルには何も書かれていない。

ただ、白い缶に小さく「memory」とだけ刻まれていた。


仁悟は無意識にそれを拾い上げた。


「飲めば、楽になるわ」

女の声が近くで囁いた。

「つらいことも、眠れない夜も、全部」


缶は冷たくも温かくもなかった。

手にした感触が曖昧だ。


指先が震えた。

――飲みたくない。

そう思ったのに、唇が勝手に動いた。


プシュ。


開ける音と同時に、

冷たい霧が顔にかかった。


一口、飲んだ。


口の中に流れ込んだのは、液体ではなく、

記憶だった。


夜勤の工場。

流れ作業の音。

無表情で機械を見つめる自分。

上司の声。

そして、何よりも――


小さな頃に亡くした母の声。


「――仁悟、星がきれいだね――」


涙が勝手に流れた。

だが、次の瞬間、頭の中から母の顔が消えていた。


【5. 支払われたもの】


缶を落とした自販機の中から、

また声がした。


「代金、確かにいただきました」


女の姿はもうなかった。

代わりに、自販機のガラスに自分の顔が映っていた。

だが――どこか違う。


目の奥に、赤い光が宿っていた。


仁悟は缶を落とした。

転がった缶は、霧のように消えた。


「……母さん?」


呼びかけても、声は返ってこない。

記憶の中にいたはずの母の姿も、もう思い出せなかった。


自販機の赤いランプが、一度だけ明滅した。

まるで「取引完了」とでも言うように。


【6. 翌朝】


朝。


仁悟は、自宅のベランダで目を覚ました。

手には、空の缶が握られていた。


白い缶。

何のロゴもない。


夜の出来事は夢だったのかもしれない。

だが、頭の中が妙に静かだった。

何か大事なことを忘れている気がする。


工場へ向かう途中、

ふと丘の方を見た。


昨夜の自販機は、もうなかった。


空き地には、

赤い光を反射する金属片だけが落ちていた。


仁悟はそれを拾い上げた。

掌の中で、小さな電子音が鳴った。


――「ありがとうございました。またどうぞ」


風が止まり、背筋が冷えた。


自販機は、便利で正確な機械だ。

代金を入れれば、必ず対価が出てくる。


けれど、真夜中に灯るその赤いランプは、

“等価交換”では済まないものを欲しがるときがある。


眠れぬ夜に、

ふと立ち寄った自販機で、

あなたは何を買うだろうか。


そしてその代金に――

何を支払うつもりだろうか。

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