『霧の森』
【1. 霧の立つ朝】
山の天気は変わりやすい。
その日、不知 隼は夜明けと共に現場へ向かった。
林業を生業として十年。
山に入るのは慣れている。
だが、今朝の霧は異様だった。
谷を覆う白い靄は、音を吸い込み、
チェーンソーの音さえ霞の中に沈んでいく。
ふと、風が止んだ。
木々のざわめきが消えた。
耳に残るのは、自分の呼吸音だけ。
「……気味が悪いぜ。」
いつもは仲間と作業をしているはずの場所に、
その日はなぜか自分しかいなかった。
【2. 声】
倒木を片付け、休憩を取ろうとしたときだった。
「……しゅん」
背後から、かすかな声がした。
振り返っても、誰もいない。
霧の向こうに、淡い影が揺れた。
女のような輪郭――
だが、輪郭が歪み、風の流れに合わせて揺れている。
「誰だ?」
呼びかけた瞬間、
その影が一歩、こちらに近づいた。
輪郭がはっきりしてくる。
赤い絵の具のついた服。
短めの髪。
笑ったときの口元。
――間違いない。
それは五年前に亡くなった恋人、**古庵 萌花**だった。
【3. 霧の中のモカ】
隼は息を呑んだ。
「……萌花?」
彼女は微笑んだ。
まるで、生きているかのように。
「会いたかった」
声は懐かしく、震えるほど甘かった。
けれど、その笑みの奥に、
どこか“見てはいけないもの”の静けさがあった。
霧が濃くなる。
白の中で、世界が溶けるように歪む。
彼女の足元は見えなかった。
いや、最初から“足”がなかったのかもしれない。
「どうしてここに……」
隼の声は掠れた。
「帰ってきたの」
モカは言った。
「あなたがまだ、あの日を終わらせてくれないから」
【4. 森の境】
あの日――
隼とモカは、この山の旧道で車ごと滑落した。
隼だけが助かり、萌花は帰らなかった。
以来、彼はこの森で働き続けてきた。
まるで、償うように。
霧の中、モカが近づく。
「ねえ、もう一度だけ、行きましょう」
「どこへ……?」
「“向こう”まで」
白い手が伸びる。
指先は冷たく、湿っていた。
触れた瞬間、霧がざわめいた。
木々が軋み、遠くで獣の鳴く声がした。
隼は本能的に、後ずさった。
だが、足元の土がずぶりと沈む。
気づけば、地面が柔らかい――まるで湿地のように。
「離せ!」
叫んだ。
だが、モカの顔は笑っていた。
その笑顔はもう、人間のものではなかった。
【5. 消える声】
視界がぐにゃりと曲がった。
周囲の木が逆さに立ち、空が地面に沈む。
音が遠のく。
自分の鼓動だけが残る。
白い腕が、自分の胸に触れる。
その冷たさは、まるで凍った水のようだった。
「もう楽になっていいの」
モカの声が、耳元で囁いた。
「あなたがいるから、私、まだここにいるの」
「……俺が?」
「ええ。だから――一緒に」
その瞬間、隼は見た。
モカの瞳の奥で、幾つもの顔がうごめいていた。
笑う顔、泣く顔、怒る顔――
それは、森で亡くなった人たちのものだった。
【6. いつもの作業場】
次に目を開けたとき、
隼はトラックの荷台の上で目を覚ました。
昼の光が差している。
霧もなく、鳥の声が遠くで聞こえる。
仲間のひとりが声をかけた。
「おい隼、どうした? 顔色悪いぞ」
「……いや、なんでもない」
立ち上がると、胸ポケットに何かが入っていた。
取り出すと、そこには小さな白い花。
見覚えのある――
萌花がいつも髪に挿していた、森の花だった。
風が吹いた。
林の奥で、
かすかに誰かが笑ったような気がした。
森は、生と死のあいだにある。
人が木を伐り、再び植えるように、
この世界もまた、何かを切っては結び直す。
“忘れたくない”という想いは、
ときに“帰れない道”を作る。
霧の奥に見えるのは、
過去か、それとも自分の影か。
――もし、森の中で誰かに名前を呼ばれても、
決して振り返ってはいけない。




