『絵に描かれた部屋』
【1. 鬼才のアトリエ】
街の外れ、坂道の先にある古い洋館。
そこが鬼才の画家、古庵 萌花のアトリエだった。
彼女の絵は一目見た者の心を掴んで離さない。
柔らかな色彩、息づくような肌の描写――
「絵に認められた者」と呼ばれるほど、
その才能は異質だった。
ただ、誰も知らない。
彼女が“いつ”から絵を描き始めたのか、
そして“誰”を描いているのかを。
【2. 絵の声】
アトリエの中は、いつも油絵の匂いで満ちていた。
壁一面に人物画が並び、どの顔も生気を帯びていた。
ある晩、萌花はキャンバスの前で筆を止めた。
背後で、誰かが囁いた気がした。
「……まだ、終わっていない」
振り向いても誰もいない。
風もないのに、絵の表面がかすかに波打っている。
彼女は笑った。
「幻聴ね。きっと疲れてるのよ。」
だが、筆を取ると、
勝手に手が動き始めた。
筆先が、意思を持ったように。
線が走り、形が現れる。
彼女が描いているはずなのに、
“描かされている”感覚があった。
【3. モデル】
翌日、萌花のもとにひとりの青年が訪ねてきた。
美術館の職員だという。
「先生の絵は、どれも同じ目をしていますね。
あれは、誰なんですか?」
萌花は微笑んだ。
「誰、でもないわ。描きたい“気配”を描いてるだけ」
青年は首を傾げた。
「でも、昨夜見た夢に……あなたの絵の中の人が出てきたんです」
萌花の手が止まる。
「夢?」
「ええ。『ここに来て』...と――」
青年が言い終える前に、
キャンバスの上で、描きかけの目がゆっくりと開いた。
【4. 絵の中の部屋】
その夜、萌花は夢を見た。
キャンバスの奥に、もうひとつの部屋があった。
見覚えのあるアトリエ。
だが、色がすべて逆転している。
壁は青ではなく赤。
光は暖かいはずなのに、冷たかった。
そこに“自分”が立っていた。
筆を持ち、こちらを見ている。
――どちらが本物なの?
問いかけても、絵の中のモカは笑って筆を動かした。
次の瞬間、彼女の頬に冷たい何かが触れた。
赤い絵の具。
目を覚ますと、
頬に同じ場所、同じ形の絵の具がついていた。
【5. 絵が描くもの】
日が経つにつれ、
萌花の記憶は曖昧になっていった。
描いたはずの作品が、知らない構図に変わっている。
鏡の中の自分の顔も、少しずつ“絵の中の誰か”に似てきていた。
ある夜、彼女は決心して筆を握った。
「描き返す。描かれてたまるもんですか」
勢いよく筆を走らせる。
だが、キャンバスの中の手が先に動いた。
筆の動きが、鏡のように同期している。
そして絵の中のモカが、
唇を動かした。
「あなたの色、もう全部もらったわ」
次の瞬間、部屋が暗くなった。
【6. 翌朝のアトリエ】
翌朝、アトリエに訪れた画商が見たのは、
一枚の完成した大作だった。
それは、萌花がキャンバスの前で微笑む肖像画。
服の皺も、指の陰影も完璧だった。
ただ、妙に目が生きている。
本物の瞳のように、光を反射していた。
萌花の姿はどこにもなかった。
その後、画は“奇跡の新作”として展示された。
だが、観る者の中には、
「絵の中の彼女が瞬きした」と語る者が後を絶たなかった。
創造とは、支配でもある。
描く者は世界を形づくり、
描かれる者はそこに囚われる。
だが、境界はいつも紙一重だ。
手を動かしているのは本当に“自分”か?
それとも、筆の向こう側の“何か”か?
もし、あなたの描いた絵が
夜の静けさに微かに揺れたなら――
その瞬間、あなたはすでに“描かれている”。




