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境界奇譚  作者: otomo2gou
10/16

『絵に描かれた部屋』

【1. 鬼才のアトリエ】


街の外れ、坂道の先にある古い洋館。

そこが鬼才の画家、古庵ふるあん 萌花もかのアトリエだった。


彼女の絵は一目見た者の心を掴んで離さない。

柔らかな色彩、息づくような肌の描写――

「絵に認められた者」と呼ばれるほど、

その才能は異質だった。


ただ、誰も知らない。


彼女が“いつ”から絵を描き始めたのか、

そして“誰”を描いているのかを。


【2. 絵の声】


アトリエの中は、いつも油絵の匂いで満ちていた。

壁一面に人物画が並び、どの顔も生気を帯びていた。


ある晩、萌花はキャンバスの前で筆を止めた。

背後で、誰かが囁いた気がした。


「……まだ、終わっていない」


振り向いても誰もいない。

風もないのに、絵の表面がかすかに波打っている。


彼女は笑った。


「幻聴ね。きっと疲れてるのよ。」


だが、筆を取ると、

勝手に手が動き始めた。

筆先が、意思を持ったように。


線が走り、形が現れる。

彼女が描いているはずなのに、

“描かされている”感覚があった。


【3. モデル】


翌日、萌花のもとにひとりの青年が訪ねてきた。

美術館の職員だという。


「先生の絵は、どれも同じ目をしていますね。

 あれは、誰なんですか?」


萌花は微笑んだ。

「誰、でもないわ。描きたい“気配”を描いてるだけ」


青年は首を傾げた。

「でも、昨夜見た夢に……あなたの絵の中の人が出てきたんです」


萌花の手が止まる。


「夢?」


「ええ。『ここに来て』...と――」


青年が言い終える前に、

キャンバスの上で、描きかけの目がゆっくりと開いた。


【4. 絵の中の部屋】


その夜、萌花は夢を見た。


キャンバスの奥に、もうひとつの部屋があった。

見覚えのあるアトリエ。

だが、色がすべて逆転している。


壁は青ではなく赤。

光は暖かいはずなのに、冷たかった。


そこに“自分”が立っていた。

筆を持ち、こちらを見ている。


――どちらが本物なの?


問いかけても、絵の中のモカは笑って筆を動かした。

次の瞬間、彼女の頬に冷たい何かが触れた。

赤い絵の具。


目を覚ますと、

頬に同じ場所、同じ形の絵の具がついていた。


【5. 絵が描くもの】


日が経つにつれ、

萌花の記憶は曖昧になっていった。

描いたはずの作品が、知らない構図に変わっている。


鏡の中の自分の顔も、少しずつ“絵の中の誰か”に似てきていた。


ある夜、彼女は決心して筆を握った。


「描き返す。描かれてたまるもんですか」


勢いよく筆を走らせる。

だが、キャンバスの中の手が先に動いた。


筆の動きが、鏡のように同期している。


そして絵の中のモカが、

唇を動かした。


「あなたの色、もう全部もらったわ」


次の瞬間、部屋が暗くなった。


【6. 翌朝のアトリエ】


翌朝、アトリエに訪れた画商が見たのは、

一枚の完成した大作だった。


それは、萌花がキャンバスの前で微笑む肖像画。


服の皺も、指の陰影も完璧だった。

ただ、妙に目が生きている。

本物の瞳のように、光を反射していた。


萌花の姿はどこにもなかった。


その後、画は“奇跡の新作”として展示された。

だが、観る者の中には、

「絵の中の彼女が瞬きした」と語る者が後を絶たなかった。


創造とは、支配でもある。

描く者は世界を形づくり、

描かれる者はそこに囚われる。


だが、境界はいつも紙一重だ。

手を動かしているのは本当に“自分”か?

それとも、筆の向こう側の“何か”か?


もし、あなたの描いた絵が

夜の静けさに微かに揺れたなら――

その瞬間、あなたはすでに“描かれている”。

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