俺の後輩は八方美人
昼のチャイムが鳴り、俺は椅子の背もたれに身体を預けて、ぐいっと伸びをした。
いつもように背骨がばきばき。はあ、歳は取りたくないねえ。
「尾張先輩、メシ行きましょうよ」
声をかけてきたのは金崎。入社三年目。
俺の後輩の中では、わりと常識人の部類に入る。
「おう」
というわけで、俺たちは会社近くの町中華に入った。
ここは安くてボリュームがあって、俺のお気に入りだ。
「八宝菜定食で」
「じゃあ俺、チャーハンください」
注文を済ませ、ぬるめの水をすする。
混み始める前に滑り込めたのはラッキーだった。
「お前、それだけで足りるの?」
「はい。まあ俺たち、デスクワークじゃないですか。午後は眠くなるんで、あんまり重いものは……」
「俺はそれだけだと、へばっちまうなあ」
テーブルに置かれたメニュー表に目を落とす。
八宝菜。エビにイカ、豚肉、白菜、ピーマン、にんじん、椎茸、ヤングコーン。
あれこれ詰め込んで、調和が取れてるようで、結局どの具が主役かよく分からない。 まあ、美味いけど。
(なんか……あいつみたいだな)
ふと、とある後輩の顔が頭に浮かんだ。
誰とでもそれなりに仲良くして、場の空気を読むのがうまくて、表情を崩さない。
まるで、全方向に合わせて“調和”を演じてるみたいな人間。
「チャーハン、お持ちしましたあ!」
「あっ、どうもー」
「先、食ってていいぞ」
「了解っす。それじゃあ……はふっ、はふっ」
金崎は軽く手を合わせてから、レンゲでチャーハンを食べ始めた。
テーブルに置かれ、湯気を立てたチャーハンが鼻をくすぐる。
チャーシューもいいけど、細かく刻まれたかまぼこがまたいいんだよなあ。
(食いたくなってきた。追加でミニチャーハンでも頼むか?)
しばらく店内のテレビを眺めていると、注文した料理が届いた。
「八宝菜定食、お持ちしましたあ!」
「どうも」
……あらためて見ると、結構ボリュームあるな。
これなら定食だけで腹いっぱいになりそうだ。
(俺もおっさんだし、無理はしない方がいいか)
心の中でいただきますをして、レンゲを八宝菜に突っ込んだ。
そして一口。あちぃ! だが、美味い。
すかさず水で口の中を冷やし、味噌汁をすすった。
「八宝菜かあー。……そういえば、藤代さん。あの子、また陰口言われてましたよ」
「……八宝菜であいつを思い浮かべるのかよ」
「ははっ。まあ、『はっぽう』繋がりで」
──ま、俺も人の事は言えないか。
後輩に、藤代という女性の新入社員がいる。
付いたあだ名は『令和の木ノ下藤吉郎』。
東へ行けば、部長ににこにこ。
西へ向かえば、課長へ花のような笑み。
一体、懐で何枚草履を暖めているのか分からない。
そんな八方美人っぷりが噂になっている奴だ。
「なんか……あざといっていうか、掴めないですよね、あの新人ちゃん」
「お前、直接話したことあんのか?」
「はい、少しだけ。……正直、ちょっと好きになりかけました」
「どんだけだよ」
「しょうがないじゃないすかー。俺、草食系だし。……先輩も、気を付けてくださいよ?」
「けっ、お前に言われるまでもねえっての」
誰にでも愛想よく接して、にこにこと笑って、角を立てない。
そういう人間は、どこか信用ならないと思ってしまう。
──母さんも、そうだった。
父親の顔色をうかがって、笑顔で機嫌を取って、でも結局、捨てられた。
それから何年も、何が悪かったのか分からないまま、ひとりで頑張って……
俺はその背中を、ずっと見て育った。
(八方美人なんて、本人も周りもロクな目に遭わない。そうだろ? そう、そのはずなんだ)
だが──
社会人になって痛感した。
会社というのは、きれいごとだけじゃ回らない。
何も言わずに空気を読んで動けるやつは、ある意味で有能だ。
俺も最近、部長に合わせて笑ったり、言いたいことを飲み込む場面が増えた。
(……あいつの事を、否定出来るだろうか)
ため息をついて、味噌汁をまたすすった。
昼飯を済ませ、会社に戻る。
「それじゃ、午後も頑張りましょー」
「だな」
自分のデスクで、残りの時間を潰す。
……一応、チェックするかあ。
私用スマホのマッチングアプリを起動する。
うーん、なんだかやり取りも面倒だ。
──よし、決めた。
退会手続きをぱぱっと済ませ、アプリをアンインストール。
だいたい、今は仕事で手一杯なんだ。
昼休みが終わり、ノートパソコンを開く。
おっ、なんだか頭がすっきりしてるぞ。
これなら、ついでに明日の分の仕事もこなせそうだぜ。
休憩がてら、給湯室へ。
そこで、出会ってしまった。
「あっ。 お疲れ様でーす!」
「……どうも」
藤代美咲。
令和の木ノ下藤吉郎のお出ましですか。
折角、仕事の方が調子出て来たってのにさあ……。
「どうしました? なんだか、元気無いですねえ」
「……そうかな? そんな事ないと思うけど」
お前に会うまでは元気だったよ。
藤代は、いつも通りの笑顔だった。
にこにこして、誰にでも分け隔てなく話すその表情。
「ちょっと疲れてるみたいですよ、尾張さん。……コーヒー、入れましょうか?」
「いや、大丈夫だよ。缶コーヒーで十分だから」
「そっか。じゃあ、私は炭酸で気合いでも入れようかなあ」
藤代は自販機の前で、小さな声で「疲れたー」と呟いて、炭酸水を取り出す。
その背中が、思ったより小さく見えた。
「……ま、お互い無理せずにな」
「あっ、はい。……意外に優しいんですね! 『尾張の教育魔王さん』は」
「うるせえ」
この名字のおかげで、変なあだ名を付けられちまった。
上司に言われて、新人の育成を自分なりにやってただけなのに。
そのせいか、何人かの新入社員に恨まれてしまっている。
(金崎みたいに、感謝する奴もいるけど。ま、あいつは例外だな)
藤代は缶のタブを開けると、ぷしゅっと小さな音を立てて一口飲んだ。
そのときふっと、素の表情が見えた気がした。
俺はとりあえず、自販機でコーヒーのボタンを押した。
「……こんな大雨、聞いてねえよ」
仕事も終わり、会社を出ようとした。
天気予報に裏切られ、何人かの社員が途方に暮れている。
(ま、俺にはこいつがある。抜かりはないさ)
鞄から折りたたみ傘を取り出し、みんなの前で得意げに差そうとして──
藤代を見付けた。社内の薄暗い明かりのせいか、なんだかか弱い印象だ。
頭を掻きながら、藤代に近づいていった。
「……あっ、どうも、尾張さん! ……って、え? これ……」
「俺の家、この近くだから。使っていいぞ。じゃあな」
傘を渡して、会社を出た。
少しくらい濡れても、大丈夫だろう。
そう思って歩いていると、後ろから駆け足の音が聞こえてきた。
「へへっ、私もこっちなんですよお。途中まで一緒に行きましょう!」
「……そうか。まあ、途中までな」
俺が傘を持ち、時々世間話をしながら。
しばらく、二人で歩いた。
「……それじゃ、私はこっちなんで。傘、乾いたら返しますね!」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「そうだ、尾張さん。ちょっと耳貸してもらえますか?」
「あん? なんだよ」
俺が藤代の方に耳を寄せると──。
「……あんまり、私に優しくしない方がいいですよ? 好きになっちゃいますから」
「……なっ」
藤代は素早く俺から離れ、にこりと笑って去って行った。
令和の木ノ下藤吉郎、恐るべし。
金崎の気持ちが少し分かった俺は、今後あの女には厳しく接していく事を決意した。