二、 オタク、キンブレを拾う
ところで今日は少し困ったことがあった。
手持ちのキンブレ2本の内、1本が完全に点かなくなってしまったのだ。
以前からライブの途中で突然消えては電源ボタンで点け直したり、それでも点かない場合は電池カバーを外して電池を入れ直し、そうだましだまし使ってきたのだが、ついに完全にお亡くなりになってしまった。
このキンブレはキューティクルズのデビュー前、オレが別のアイドルグループに通っていた時から使い続けていたものであり、今も約週四ペースでライブに行って振り回してるので、もう寿命だったのかもしれない。
今はもう動かないそのキンブレ、である。
そもそもキンブレといえばオタク特有のアイテムではあるが、その立ち位置は各界隈により異なる。
【界隈】
一般的に、自分の推しが所属しているコミュニティや業界、ジャンル、事務所などを表す。
また共通の趣味やカルチャー、好きな世界観を持つ者同士で構成されるゆるいコミュニティ、クラスターのこと。
本作ではそのアイドルの周辺/関係者(メンバー、運営、オタク)を指す。
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一般的にはアイドルオタクといえば “法被を着て両手にペンライトを持ち面妖な踊りを踊る”、のイメージがあるかもしれないが、実際にそんなヘンなことするオタクはほぼいない。
(完全にいない、とも言い切れない)
担当カラーのあるグループアイドルでも、オタクがペンライトを全く持たない現場もあれば、持ちたい人だけまばらに持って振っている現場もある。
【現場】
ライブやイベントが行われる会場/場所のこと。
「現場に行く」とはイベント会場に行くことを指し、対義語である「在宅」は、イベントに参加せずに家に居ることを意味する。
「ライブに行く」より「現場に行く」の表現がより臨場感を伝えるため、アイドルオタクの間で好まれるようになったと思われる。
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一方で、ペンライト/キンブレが絶対必須のオタクアイテムである界隈もある。
"ペンラ現場" などと呼ばれるが、キューティクルズもその一つであろう。
ペンライトを忘れてライブに行くことは、ゴルフクラブを忘れてゴルフ場に行くようなものである。
「ここへいったい何しに来たんですか?」と言われても仕方がない事態だ。
ペンラ現場のオタクにとって、ペンライトは推しメンの応援と共に忠義の証であり、時には対バン相手の他グループと張り合ったり、または協力・共闘する為の武器にもなるのだ。
これは武士にとっての刀、いわゆる魂といっても過言ではない。
ペンライト/キンブレは、オタクの魂として灯っているのである。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」は、
大正から昭和にかけて活躍した梶井基次郎の短編小説『櫻の樹の下には』の一説である。
桜の花があれほど美しく咲くのは、木の下に死体が埋まっていてその養分を吸っているからだ、と。
そして同じことが、オタクのペンライトにも言えるだろう。
アイドルライブの客席でペンライトが美しく光るのは、その下のオタクが人生を賭け、ある意味死ぬ気で魂を燃やしているからだ。
光らないオタクは、ただのブタなのである。
さて、そんな大事なキンブレが一つ壊れてしまったのだ。
明日の土曜も午前からキューティクルズちゃんのライブがあるので、これは早急に新調しなければならい。
ヨドバシはまだ開いてるよな?と思いながらふと空を見上げると、夜でも分かるくらいにどんよりとした厚い雲が見える。
これは一雨くるぞと察し、オレは足早に靖国通りの大きな横断歩道を渡り、JR新宿駅東口方面に向かって高架下沿いを歩いた。
その時、右側の街路樹の茂みの中で、ぺカッと何か赤く点滅するものが見えたのだ。
「ん?」
他の通行人たちは気付いていないのか、そこには目もくれずに次々と素通りしていく。
規則的に赤く点滅するそれを、初めは交通整理の誘導灯か何かが入り込んだのかと思ったが、それよりはだいぶ小さいようだ。
なんだろう?
オレは目を細め、吸い込まれるようにその赤い点滅の方へ歩みを進めると、サラリーマン風の通行人とドンっとぶつかった。
「いってーな」とサラリーマンからぶっきらぼうに言われたが、歩道をフラフラと横切ったのはこちらである。
「あ、すみません」そう言って軽く頭を下げると、男はそのまま黙って行ってしまった。
オレは改めて赤い点滅の方へ目をやると、その光はもう消えていた。
あれ?と思い街路樹の中に手を入れると、徒競走のリレーのバトンと同じくらいの大きさの筒状のものが指先に当たった。
ん?これは
触り覚えのある感触のそれ取り出すと、何とキンブレであった。これには思わずギョッとした。
先ほどまでキンブレを買いに行こうと考えていたその矢先に、それを拾うとは流石に出来すぎではないのか。
若干の不気味さを覚えつつも、しかしここは『大遊戯場・歌舞伎町』を有するJR新宿駅の東口近くである。
こちら方面にはライブハウスも多いので、そんなこともあるだろうと自分を納得させるようにした。
オレはそのキンブレをマジマジと眺めた。
奇しくも、型はオレが使っている機種とほぼ同じようである。
数年前の型式ではあるものの、しかし街路樹の中にあったとは思えないほど小ぎれいで、長い間ここで放置されていたわけではないようだ。
通常のラメシートの入ったチューブに白いボディー、それに手を通すストラップと一緒に、少し土汚れのついた四角いアクリルのキーホルダーが取り付けられている。
ボタン配置もオレの使っているものと同じであるので、試しに電源ボタンを長押ししてみた。
少し反応が遅いなとは思ったものの、ややあってそのキンブレはLEDらしくないロウソクの炎のように、ゆっくりと揺らめいて赤く灯った。
一応光る。動作が鈍いのは、おそらく乾電池が古いのだろう。
次にキンブレ本体のセレクトボタンを押した。
キンブレのチューブはボタンの操作に従い、
赤から桃、黄緑、紫、水色、ライム、黄、緑、橙、白、青、
とさまざまに色を変え、また赤に戻った。
色の切り替えも問題なし、これは使えそうだ。
さて、これはどうしたものか。
そう思った刹那、オレの頭頂部に最初の雨粒が直撃した。
それから間髪を入れず、ザーっと打ち付けるように激しい雨が、新宿一帯のアスファルトを一瞬で染めていく。
その勢いは凄まじく地面に水煙が起きるほどであり、そしてすぐに鋭い閃光と共に雷鳴が轟いた。ゲリラ豪雨である。
傘の無い通行人たちはカバンや上着を頭にやり、足早に駅方面や高架下へ向かって駆けていった。
このキンブレをこのまま置いて行っても、雨に濡れて故障するだけだ。
そう考えたオレは持っているカバンにそのキンブレを入れると、スニーカーに秒で雨水が染み込むのを感じながら、新宿駅まで急いだ。
その夜、関東一帯には記録的な大雨が降り注いだ。
この雨の中、キューティクルズのメンバーは全員無事に帰宅できたであろうか。
オタク的にはそれだけが気がかりであった。
~つづく~