魚のいない水族館
【2050年8月11日
完全閉館まであと2日】
ビルの一階を利用した水族館の前の看板に、大きく貼り出されていた。
館内では、今では珍しいLEDの明かりの下、白髪混じりの男が古びた水槽を熱心にふきあげている。
「明日で閉館だ、、、すまんな、活躍させてやれなかったな、、、」
男は、子供に話しかけるようにその小さな水槽にそっと手を置いた。
あの悲劇の日から35年が経ち、どうにか日常を送れるようになったが、水族館に魚達が戻ることはなかった。
この水族館も、古びた水槽以外はモニターに写しだされた魚が、泳ぎ続けるだけだった。
「雨か、、、。」
明日の閉館を前に、何故か安堵感を感じながら白髪混じりの老館長は、いつものように水槽の横においた椅子に腰かけ、最近寄り付くようになった黒猫に餌をあげながら、来館者を待った。
雨の日は、雨宿りがてらに来館者が数名あるぐらいだが、閉館の告知もあってか、いつもより多くの方が来られ旧知のお客も何名か水族館を楽しむためではなく来館された。
閉館間際にふと、入り口を見ると、5才くらいの長い黒髪の少女がドアに顔を押し付けながら中を覗いていた。
少しの間様子を見ていたが、あまり長くいるので、ほっとけなくなり声をかけた。
「どうしたの?何か探してるのかな?」
少女は少しびっくりして後退りしたが、老館長の穏やかな笑顔を見て、小さく頷く。
「パパを探しにきたの」
「ここまでひとりで来たの?」
「うん」
老館長は少し悩んだが、少女に聞いた。
「よかったら少し中を観ていくかい?」
「うん!」
鼻先まで伸ばした前髪のお陰で目の表情はうかがいしれなかったが、口元は大きくほころんだ。
父親が来るまで老館長は館内を案内することにした。
少女は、水族館を初めてみるようなはしゃぎようで、大きなモニターに映る様々な今では見ることが出来なくなった様々な魚達や、海での生活に興奮しながら老館長と歩いた。
「この魚って、「くじら」っていうんだよね!」
「そうだよ、よく知ってるね。海のなかで一番大きな生物だったんだよ。」
「ふーん、でも大きい魚より小さい魚のほうが、私は好き」
こんな小さな子供と魚の話が出来ることに少し驚きと興味を感じ、
「では、お嬢ちゃんは、何の魚が好きなのかな?」
老館長は古い漫画映画であった、
【クマノミ】が、出てくると想像していたが、、、。
「きんぎょさん」
「、、、金魚?はっはっはっは、、、金魚かー!」
「確かに、小さくて可愛い魚だ。よく、金魚なんか知っていたね」
今では金魚のようなありふれた魚に興味を持つ物はほとんどいなかった。
「パパが、前に教えてくれたの」
そうか、、、、
なぜか、懐かしいやり取りに、老館長は気持ちが高揚した。
「そうだ、わたしのとっておきを見せてあげよう」
そういうと少女の手を優しく引き、受付横のひっそりとした空間のところまで引き返した。
「これが、なにかわかるかい?」
「「水槽!」」
二人は、同時に答えをいいあい、顔を見合わせて微笑みあった。
水槽の中は、どの角度からみても砂と岩、水と循環副産物の気泡が、時折水面を上がっていくだけだった。
「どうして何もはいってないの?」
少女は首を傾げながら、老館長に質問した。
「この水槽に入る魚は決まってるんだ、、だけどその魚がなかなか見つからなくてね。」
「なにが入るの?」
「お嬢ちゃんの好きな金魚だよ」
水槽をみつめながら、静かに答えた。
「えー!見たい!見たい!」
少女は、老館長のズボンを何度もひっぱりながら懇願した。
「、、、残念だけど、それは叶わないんだよ、、。
金魚はこの数十年見つかっていないし。
明日で、この水族館は閉めるからね」
優しく、そして悲しさの詰まった言葉を少女も理解したようで、手をそっと離した、、。
少女の失望に気付き、取り繕うように老館長はひざをつき、彼女と目を合わせると、
「パパ、来ないね」
そういうと入り口を見た。
少女も、入り口を見るが誰もいない。いつもならすでに閉まっている館内には、閉店の音楽が静かに流れているだけだった。
「私、今日は帰る」
そういうと老館長がひざを押さえながら立ち上がるより早く、出口にむかって走っていった。
「おじいさん、また来るねー」
出口の前で振り返り、元気に手をふった。
「ああ、またな」
小さなお客さんに手を振り見送りながら、大きく溜め息をついた、、。
(最後に仕事ができてしまったな、本物は無理だが、金魚のデーターは出しておくか、、、)
水族館をやってるのに本物がいないという何十年も抱えてきたジレンマを、最後にも感じるのか、、、悲しい思いと、それでも明日、少女が映像を見たときの笑顔を想像してワクワクする気持ちを感じながら、すっかり遅くなってしまった閉館の準備を始めた。
妻がなくなってから老館長の日課は、水族館から歩いて数分のところにある小料理屋に行って、店主おまかせの夜食をとることでした。
今日もいつものように、準備中の看板を横目に我が家のように昔ながらのドアをあけて、中にはいっていく。
横目で店主に軽く会釈をし、店の奥のいつもの席に座り、小さな鞄を膝にかかえ、店主夫婦が作ってくれる美味しい夕食の登場を待つ。
先程の女の子は無事お父さんに会えたのだろうか、どの金魚のデータを喜んでくれるか?等と、考えを巡らせていると最終日を迎える感慨にふけることも忘れていた。
しばらくすると鰻風丼ぶりと吸い物が老館長の前に出された。鰻の風味と栄養が摂れるように作られた、オリジナル料理だった。思い耽っていた彼には、思いもよらない最終日前夜のサプライズであった。
カウンターの奧で仕込みをしている店主とおかみさんに改めてお礼を言い、明日の最後の日をがんばってきますと30年来の付き合いの二人に笑顔で告げた。
思わぬご馳走に舌鼓を打っているとふと視線を感じた。
横を見ると、見たことのないとても美しい顔をした人物が笑顔で覗きこんでいる。
美しさもそうだったが、左目が吸い込まれるほどの黒であるのがさらに印象的だった。
「美味しそうですね」
老館長は、思わずご飯を詰まらせそうになった。
「大丈夫ですか?」
心配そうに見る顔がまた、美しい。
「、、ええ。初めて見る方ですが、この店の方ですか?」
「いえ。貴方のファンです」
老館長は、細くなった目を丸くして驚いた。
「この時代、計画通り夢を実現して、予定通りに終わりを迎えることが出来る人なんて、ごくわずかしかいません。
しかもみんなに素敵な時間を提供し続けるなんてすごいじゃないですか!ご立派なことです」
少し芝居じみた言葉に聞こえたが、
「ありがとうございます。何度か水族館に来てくれた方なんですか?」
「はい、素敵な魚たちや海の生態系のストーリー映像など、懐かしく拝見させて頂きました。
あれは、誰かに頼んで作ってもらってるのですか?」
(久しぶりの質問だな)
そう思いながら、
「あれは、私がデータを選んで、AIが加工、編集と音楽までつけてくれているんです。ま、初めのAI設定や館内の装飾は妻がやってくれたのですが」
そう付け加えると照れ隠しに頭をかき、お茶を一口飲む。
「で、失礼ですが、貴方はどちらさまですか?」
少し座り直して質問する。「あっ!食事中にいきなり話しかけてしまってすみません。私、環境省水質管理部の琥珀といいます」
そういうと、慌てて内ポケットから名刺を差し出した。
かわった触感と厚みのある和紙には、環境省 水質管理部地質生物管理部 琥珀とあり、不思議なマークが施されていた。
「素敵な水族館が明日閉館してしまうと聞きまして、どうしてもそれまでにお話を聞いてみたいと思ったのです」
久しくもらうことがなかった名刺をしげしげと眺めながら、
「食べながらでもいいですか?」
優しい笑顔をたたえて答える。
「もちろんです」
そういうと、名刺を薄手のジャケットの胸ポケットに入れ、続きを食べ始めた老館長に、
「昔からあそこで水族館を営んでいらっしゃるのですか?」
口のなかに放り込んだ、ごはんと鰻風肉片をゆっくり片付けながら、老館長は琥珀の問いに答える。
「わたしは昔エンジニアをしていまして、、、、、昼夜を問わず一生懸命仕事をしてたんですが、、、、、ある時、娘に水族館に行きたいとせがまれまして日曜日に連れていくと約束したんです、、、。
ですが急な仕事が入ってしまって結局行けなかった」
やや顔を上げ唇を少しかみしめながら、悲しい面持ちで老館長は続けた。
「ほんとに、泣かれて、怒られて、大変だったんですよ、、そのあとしばらくの間、娘と妻には口も聞いてもらえなかった」
口元には悲しい笑顔が見える。
琥珀は難しい顔で、うなずき同調する。
「、、、あとで妻から聞いた話では、初めて私と大好きな魚がいっぱいいる所にいけるということで、一週間前からスケッチブックや、カメラなんかをリュックに入れて毎日楽しそうに出し入れしていたそうだ、、、」
「楽しみにしてらっしゃったのですね」
琥珀は、美しい眉をひそめながらつぶやいた。
「ああ、、、娘に大好きないろんな魚を見せたくてね、あの水族館を始めたんだよ」
「そうでしたか、、では、さぞかし娘さんは喜んだんでしょうね」
、、、、。
少しの沈黙のあと、悲しみをこらえた表情で老館長は、その質問に答えた。
「残念ながら、水族館を始めたのは、娘を亡くしたあとなんだよ、、、あのウイルスが広がってから5年後のことだ」
琥珀は、はっと息を呑んだ。
「申し訳ございません、嫌なことを思い出させてしまいました」
「いやいや気にしないでください、もうずっと前のことです。
こちらこそ、昔話を聞いてもらってすいません」
気を使わせる事を話してしまったことに気づいた老館長は、それを取り繕うように1つ咳払いをして、ふと思い付いた質問を投げかけた。
「そういえばあなたは、地質生物管理局の方でしたね、、、。
どこかに、金魚を保護観察しているところなど知りませんか?」
「、、金魚ですか?」
突然の話に琥珀は少し驚いた。そう、現在魚類は絶滅、もしくは絶滅危惧種となっており、捕獲や飼育などは、重罪行為になるからである。
「残念ながらそういった話聞たこともないのですが、、、どうして知りたいのですか?」
真面目な顔で問いかけた。
老館長は、琥珀から目を反らし、奥で開店準備をしている店主たちを見ながら、ひっそりとした口調で口を開いた。
「最後のお客さんからのお願いなんです。なぜか心に引っ掛かる小さなお客さんで、できるなら本物の金魚を見せてやりたいと思って」
「いや、忘れてください。彼女には、かわいい金魚の映像を用意しますので」
そういうと、老館長は、残りの食事を食べ始めた。
黙々と食事を進める老館長をみながらなにやら考えていた琥珀だったが、
「あまり食事の邪魔をしては悪いので、これで失礼します」
そういうと、琥珀は立ち上がり出口に向かって一歩歩いたところで立ち止まった。
「あ! そういえば!」
一段大きな声だったので、老館長はびっくりして口に運んでいたご飯をこぼした。
「明日この地区にある鈴池跡の地下階段の鍵を直さないといけなかったんだっけ。
あそこの地下には、汚染前から手付かずの地下水湖があるから、万が一誰がが入って、万が一何か生物を取ってきてしまったら大変なことになっちゃうから、明日朝一番で直しにいかないと」
そういうと、仕込みを続けている店主に向け軽く会釈をして外に出ていった。
出ていく姿を横目で見ながら、老館長はクリスマスプレゼントを探している子供のように、鼓動が高まるのを感じ、
さっきまで食べていた食事に目もくれず、額の前で手を組み、下を向いたまま何か呟いていた。
しばらくの沈黙の後、残ったご飯をかきこみ横に置いていた鞄からスマートフォンを取りだしいつもの数字を入力、決定すると慌てた感じで立ち上がり、準備中の店主に声をかけた。
「今日まで長い間、美味しいご飯をありがとうございました。明日は閉店作業がありますので伺えませんが、おかげで亡き妻との約束の日まで勤めあげることができました。
明後日からは、一般の客として営業時間に来させていだだきます」
そういうと、深々と店主と女将に頭を下げた。
姿勢を正し手を止めて聞いていた寡黙な店主が、女将になにやら視線を投げた、女将はカウンターの下から小さな花束を取り出し老館長に笑顔で手渡すと、突然のプレゼントと拍手に、涙をこらえながら老館長はさらに深く頭を下げた。
店を出る際、見送ってくれていた店主に、さっきの客もたまに来るのかと聞いてみたが、二人はそんな人はいない、、、と、首をかしげるだけだった。
不思議に思ったが、それ以上にさっきの地下水湖が話が気になった。
老館長は、二人が店に戻ると携帯で何かを検索しながら、いつもの帰り道とは違う方向に足早に歩いていった。
老館長はようやく夜のあかりにかわった頃、額の汗を拭いながら、2メートル程の高さの柵でおおわれた延び放題の草むらの前に立っていた。
端末上では、「鈴池跡」と表示されている。
柵の周りを覗きながら歩いていると少し盛り上がった草むらに、なにやら錆び付いたドアらしき物が見えた。
老館長は、独り言を信じて来てしまった自分を呆れつつ、また、今から行おうとしていることへの罪悪感で頭を落とした。
しばらくして顔を上げると大きく息を吸い込み、辺りに誰もいないことを確認して、一番草の絡まりの少なそうな柵に手をかけてよじ登り始めた。
なんとか柵を乗り越えると、そーっと後ろを振り返り、誰にも見られていないことを確認すると手の砂をはらい、草丈ほどに身を屈め草に覆われた錆びたドアに向かった。
ドアノブには蔦と錆がまとわりつき、開けられたような形跡がなかったので、他にも入り口があったのじゃないかと心配になりながら、ノブを回してみた。
「ガリジャリ、、ガリジャリ、、」
開いた。
鍵もかかっていないらしく簡単にドアは開いた。
恐る恐るドアを引くと、砂の擦れる音と共にゆっくり開いた。
中は薄暗く、下に降りる階段は終わりが見えない。
入り口の古びたスイッチを押すといくつかの電灯がつき、なんとか足元は照らしてくれそうだった。
日も落ちて暗くなってきた階段の下をちらりと見て、息を潜ませ恐る恐る一段降りる。
湿った少しカビ臭い匂いを感じながら、錆びた手すりを頼りに降りていく。
壁や階段、手すりの至るところに侵食した蜘蛛の巣や、カビ、シミが長年使われていないことを証明していた。
さらに降りると壊れた電灯も多く、足元を確認しながら降りる老館長の顔には、大粒の汗が流れていた。
たまに点滅する電灯を見ては、なぜか昔の事を思い返していた。
「30年か、、、いろいろあったな、、我ながらよくがんばったもんだ、、、。しをり、、、約束通り君が逝ったあとの5年間、最後までやりとおしたよ、、明日で約束の70歳、そして閉館だ、、。
君のいった通り、結局私は他に何もできなかった、、明後日からは、何を目標に生きたらいいんだろう、、、しをり、、、」
大きく息を吐いて、目に入った汗を拭うとさらに慎重に歩を進める。
「そういえば奈菜が亡くなって、私が何も手につかなくなったときも、【じゃあいっそ辞めて、奈菜の好きだった水族館でもしない?】
ってあっさり一言。
そのおかげで、落ち込んでいる間もないほど忙しくなって辛さをごまかして生きることができた、、
奈菜が病院で亡くなってから、ほとんど食べなくなったおれのために、毎日毎日ご飯を作ってくれたお陰でいつの間にか中年体型になってたよ」
そう呟きながら薄明かりの中、階段を一歩、また一歩降りていく、、、。
しばらく昔を思い返していると怒りがこみ上げてきた。
「すべては、あのウイルスのせいだ!」
「海洋、河川の生物を死滅させ、免疫力の弱い子供も同じく高熱のなか亡くなっていく、気がついたときには世界の半分以上の生物と多くの子供たち、そして奈菜まで感染してしまった!俺たちはただ見てるだけしかなかった!」
眉間に怒りを現し言い放つと、壁にそわしていた右手を壁に打ち付けた。
叩いた音が上下に抜けていく。
館長は、無言で壁に手をあてたまま、少し気をおちつけようと呼吸を穏やかにしていく、握った手が徐々に緩む。
「そうだな、奈菜、、、。君は最後まで戦ったんだものな、お父さんがこんなんじゃ、奈菜とママに怒られちゃうな、、、」
もう一度大きな息をつくと、ズボンの後のポケットに手をつっこみ携帯を取り出し、すでにほとんど見えなくなった階段をライトで照らした。
苔の上の水滴にライトが反射してキラキラと輝く。
それをみていると光を反射する魚の鱗を思い出した。
「そういえば、奈菜は本当に魚が好きだったな。まだ小学生なのに病気の治療や、産卵日記をつけたりしていた。
夢は、水族館で働くことだった、、、、、。
もっと話を聞いてあげればよかった、もっとたくさん一緒の時間を過ごしてあげればよかった、、、。ごめんな、、、仕事ばっかりでダメなパパで、、、、。」
言葉が涙を押し出してくる。
(金魚が見たいっていった奈菜の最後のことば、奈菜の大切にしていた水槽は、今も空のままだ、、。)
頬を伝う涙を、地下からの湿り気のある冷気が優しくふきあげる。
その感覚に、はっと我に帰った館長は、改めて後ろに広がる闇を見た。
ふいに背筋に震えを感じ、なにか取り返しのつかない事をしているように感じたが、どうしても金魚を見つけて帰りたい気持ちがさらにまだ見ぬ暗闇に足を踏み出させた。
いったい何時間降りたのだろう、、、吐く息も白くなってきた頃前方がほんのり明るくなってきた。
すると突然、目の前に大きな扉が現れた。
上下左右永遠に続くかと思うほどのそれは、近づくだけで骨から凍るような冷気をまとっていた。
「なんだこれは、、こんな地下にこんな扉があるなんて、、、」
圧倒されつつも恐る恐る手を
伸ばした。
すると、手が触れる前に音もなく扉が開く。
【ぶわっ、、】
中から勢いよく暖かい風と、花の香りが吹き込み、館長の体を包みこんだ。
目の前には膝丈程の、色とりどりの草花とその奥に果てしなく広がる波ひとつたっていない水面、どこまでも続く雲ひとつない空、なぜか懐かしい心落ち着く景色が広がっていた。
あまりにも先程と違う光景に、館長はその場から動けず立ちすくんだ。
【ばしゃっ!】
静寂を打ち消すように、遠くの水面を何かが跳ねた。
突然の音に心臓が大きく高鳴るのを感じたが、徐々に希望に変わっていく。
館長は、草花の中に一歩踏み出すと、一歩さらに一歩とぬかるみを気にすることも、跳ねあげた泥が顔にかかるのも気にせずに足早にざくざくと分けいっていった。
水際にたどり着くと、館長は目を疑った。
眼下には、絶滅したと思われている魚達が、群泳していた。
マグロに、エイ、サメに、ウミガメ、、、鯉にメダカ、、、。
「鮫にメダカ?!」
あまりの驚きで、思わず水面に落ちそうになった。
「海水生物と淡水生物が、共生している!
そんなことが、、、!
いや、そんなことよりここは何なんだ!
なぜこれだけの魚が生きてるんだ!」
館長は、広大な水面を見た。そこには多くの生物が存在していた。掛けていた眼鏡を胸にしまうと水際を足早に歩きだした。
「ひょっとしたら、金魚もいるかもしれない」
館長は近くと遠くを交互に見て、水面の波紋を観察しつつ、丁寧に魚達を選別し始めた。
すると少し離れたところの窪地に赤色の群れを発見した。
館長は、期待が膨らむのを感じながら足音を潜めて近づいていく。
すると期待どおり和、洋、大小、様々な金魚たちが、ところ狭しと泳いでいた。
館長の体は激しく震え、その場に座り込み涙が溢れてきた。
「金魚だ、、ようやく、、、。金魚だよ、、奈菜、、、、見せたかった、金魚を見つけたよ、、、、、」
館長は、金魚のいる水面にゆっくり手を伸ばした。
「おやおや、勝手に捕っちゃいけませんよ!」
館長は、心臓を針で串刺しにされたかのような感覚が走った!
恐る恐る振り向くと、先ほど小料理屋で会った人物が腕を前で組み立っていた。
「あんたは、、さっきの役所の人、、、」
「はい、琥珀と申します。 貴方はいけない人ですねー、私の独り言を真に受けて来ちゃったんですねぇ、、、、」
少しいたずら口調で、琥珀は続けた。
「ここは、私どもがすべての魚を管理する特別な場所なんです。様々な場所から集めた多種多様な魚がここでは何の隔たりもなく共存しているのです。こんなにも多くの魚が、この世界には存在していたのですよ
、、、ビックリしたでしょ」
「こ、、こんな、事がありえるなんて、、」
琥珀は、語気を少し強める。
「人間は自分達の勝手で生き物を殺し、そして欲する。この世で一番業深き動物です。
館長さんはご存知ですか?人間のせいで絶滅の危機に瀕している動植物の数を!」
「100万種ですよ。」
「、、、そして、さらにまだまだ増え続けている、、、。
食物連鎖だ、という人もいましたが、そんな生易しい物ではありません。人間以外の物には生きる権利がないかのように、平気で住みかの森林や、沼地、川などを開拓し、食するのでもなく自らの欲望の為だけに殺傷する。
あげくの果てに自分達で、消滅させた生物を欲し、蔑んできた虫をむさぼり食らう」
「それが生態系の頂点に立った憐れで、滑稽な人間という生物の末路です」
悲しげな表情と共に、少し荒くなった語気を一呼吸つき、元に戻して。
「で、、、館長さんは、何をしにここに来られたのですか?」
下を向いたまま黙っている館長を一度見たあと、そこから視線をどこまでも続く水平線に戻し琥珀はわざとらしくした質問に自分で答えた。
「金魚ですか、、、」
草の生い茂る地面にひざをつき、頭を下げながら聞いていた館長は、さらに頭を下げ、
「勝手に入ってしまって、本当にすみません!」
静寂を壊す大きな声に、草原で休んでいた鳥達は飛び立ち、水中に潜る魚達の多くの波紋が交わった。
「しーっ」
琥珀は口元に人差し指を当て、綺麗に整った眉間に小さなしわを寄せて注意した。
それを見て老館長はより恐縮し頭を下げた。
「なぜここに、これだけの生き物たちが残っていると思います?」
ひざまづいている館長を立たせながら静かに続ける。
「これらは全て、生物の生きたいという想いです。その想いを汲み取って私たちが守っているのです。人間だけが、感情があって生きているのではありません。、、、ま、ここまで多種となるといろいろ問題もありますが。、、、、ひとつとして、誰かが簡単に生の線引きをしていい命はないんですよ」
「琥珀さん、お願いします。どうか、金魚を一匹だけ、一匹だけいただけませんか!どうしても見せたい子がいるのです」
聞いていた館長が琥珀に一歩詰めより懇願した。
「先ほども言ったように、私どもはこれらの生物が幸せに生きていくため、管理しているだけなのですよ。命の大きさがまだわからないのですか!」
「それは、もちろん重々わかります。、、わかるのですが、、、でも、、、私も軽い気持ちではないのです」
「では、どれほどの理由があるのですか?」
「なぜ、、、なぜ、何故でしょう、なぜか、見せないと先に進めないように感じるのです」
「、、理由になりません、それは、あなたのわがままです。諦めてお帰りください」
そういうと、琥珀は立ち去ろうと背を向け歩き始めたが動きを止めた。
「離してもらえますか」
琥珀の華奢な腕を強く掴んで離さない老館長に振り返り冷たくいい放った。
「す、すみません。でも、どうしても、仕方ないと諦めることができないのです。もう二度と、もう二度と後悔したくないのです!」
館長は、涙を浮かべて琥珀に懇願した。
腕をつかまれたまま、琥珀はしばらく考えた。
「そうですね、そもそも私の独り事が原因でもありますし、これまで魚達の歴史の伝承をしていた事に敬意を表して、一匹だけお譲りしましょう」
館長の肩の緊張がとれ、つかんでいたを慌てて離した。
「ただし、ただでは譲れません。あなたの大切なものをひとついただけますか?」
琥珀は振り返って、ややはにかんだ笑顔を見せた。
館長は、意味がわからず聞き返した。
「私の大切なものですか?」
「そうです!、あなたが一番大切にしているものと交換しましょう」
「大切なもの、、、。
、、、もう私には、大切なものなど何もないですが。」
琥珀は、館長の前を往復すると、つぎは真剣な表情で。
「お分かりになりませんか?、、、、、、では、何をいただいても構いませんか?」
「ああ、私に何が残っているかわからないが、金魚を譲ってもらえるなら、何でも差し上げます」
「何を失っても構わないのですか?見ず知らずの子のために?、、、あなたは変わった人ですね」
館長は頭を振りながら、懇願する顔を琥珀に向ける。
「いえ。それだけでは、、、それだけではないんです。思い出したのです。わたしにとってこれは、父としての贖罪でもあるのです。愚かな父親の、、、だからどうしても金魚が必要なんです」
暫く宙を見つめていた琥珀でしたが、ようやく口を開いた。
「わかりました。
では、あなたに金魚を一匹お譲りしましょう」
岸に向かって歩いていくと、スーツの内ポケットから小さなカップを取りだし、軽く水にくぐらせ、館長にさしだした。
「さあ館長さん、この子はあなたに託します。」
館長は両手を伸ばしカップを大事に受けとると、中には、真っ赤な金魚が一匹、元気に泳いでいた。
手の中の命が動き回るのを感じ、その場で泣き崩れ琥珀に何度も頭を下げた。
「館長さん、あなたの新しい最後の望みです、大切にしてくださいね」
館長は、ゆっくり立ち上がり琥珀に何度もお辞儀をすると、入ってきたドアの方へ歩き始めた。
徐々に深くなる霧の中を進んでいくと、やがて眼前に扉が現れた。
館長は左手にカップを大切に持ちながらはいったときと同じように右手を扉に近づけるとゆっくり扉が開き、館長をやさしい光が包みこむ。
そのなかを一歩、二歩進むとだんだん意識が遠退いていくのを感じて、、やがて目の前が闇に包まれた、、、。
「少しいたずらっぽくなりすぎたかしら」
水際で背伸びをしながら琥珀は小さく呟いた。
とん、、とん、、、。
と〰んとん、、。
「う、うーん、、、」
「おはよう、こんなとこで寝てたら風邪引くよ」
館長は耳元の声にゆっくり目を開け、見慣れた水族館の床から頬をはがしながら、やや痛む頭を持ち上げると、目の前には、笑顔を浮かべた少女がしゃがみこんで見つめていた。
「よく寝てたね。起きるのずっと待ってたんだから」
館長はまだうつろな頭の中で、(夢を見てたのか、、、そんな夢のような事あるわけないな等)考えながら重たい体を起こした。
「いや、すまない。なんでこんなとこで寝てたのだろう、、、。
、、たしか君は閉館前に来てくれたお嬢ちゃんだね」
「うん!」
覚えていたのがうれしかったのか、少女はまんべんの笑みをうかべている。
「どうして、ここにいるん、、」
「約束覚えてくれてたんだ!!」
館長の言葉を少女の声が打ち消した。
「約束?」
「そう!これ私が見たかったお魚!」
そういうと、彼女は入り口の片隅に置いてある住人のいないはずの水槽を指差した。
「き、金魚!?」
館長は前のめりに立ち上がり、水槽のもとまで倒れこむように走った。
何十年も魚が泳ぐことのなかった水槽には、今、鮮やかな赤い尾びれをなびかせた金魚が泳いでいた。
(あれは、夢ではなかったんだ!)
あまりの驚きと現実に暫くの間、体が震えた。
夢だと思っていた出来事、そして思い出さないようにしていたことが鮮明に思い出されていく。
大きく頭を垂れ水槽のもとに崩れ落ちると、涙が止めどなく溢れてきた。
「奈菜、、、ごめん、、、ずっと奈菜の事考えないようにしてた、、、、、約束をもっと早く守ってあげられなくてごめん、、、ごめん」
「私はここにいるよ!」
そばに立っていた少女はそういうと勢いよく館長の背中に抱きついた。
「ずっと探してたんだから、寂しかったんだから!」
彼女は涙まじりの声で叫び、力一杯館長に抱きついた。
「奈菜なのか?」
館長は、小さな手を目一杯広げて抱きついている少女を肩越しに見た。
少女はしばらくして。
「いっぱいいっぱい、待ってたんだよ」
長く垂れた前髪の下から大粒の涙がこぼれ落ち、館長の背中を濡らした。
館長が、少女に向き合うため体を動かすと、少女は正面からさらに強く抱き締めた。
「ねぇ!一緒に帰ろう!」
いっそう大きな笑顔で館長の両袖を引っ張り、その強さに館長は勢いよく両ひざをつく。
「早く、早く!」
少女は、前のめりに倒れている館長の袖を何度も引っ張り、ついに体ごと引きづり始めた。
「奈菜!わかったから引っ張るのをやめてくれ!ちょっと待ってくれ!」
館長は、たまりかねて声をあげた。
「だって、ずーっと探してたんだから!優しく声をかけて中に入れてくれたじゃない!ずっとパパを探してたんだから!」
顔を上げて少女の顔を見ると、乱れた前髪の隙間には見たことのない顔があった。
「誰なんだ!君は奈菜じゃない!?」
「ひどい!パパ、私だよ!水族館で待ち合わせしてたじゃない!私、何年も待ち続けてたんだから。ずっと寂しかったんだから!」
少女の声は、息ができないほど心に入ってくる
。
「私は、君のパパじゃない。人違いだ」
館長は、気力を振り絞り声を出した。
「優しく中に入れてくれたじゃない。お話ししてくれたじゃない!
すごく嬉しかったんだ。だからパパだよ。今日からずっと私のパパ!だから、早く一緒に行こう!あいつが来ちゃう!」
少女は、さらに強く引っ張り始めた。
「お止めなさい!嫌がっている人を連れていくのは感心しませんね」
「!!」
二人は声のする方を見ると水槽の横に見覚えのある端正な顔立ちをした人物が壁にもたれ掛かって佇んでいた。
「琥珀さん!?」
驚きとともに少女の手の力が抜けたのを感じ、館長は一気に少女の手をふりほどいた。
するとみるみる少女の顔から生気が無くなり、憎しみを帯びた顔に変わっていき、館長に襲いかかった。
その時、館長のジャケットの内ポケットから一枚の紙が、二人の間に飛びでて、間一髪、少女との間に見えない壁を作った。
それは、琥珀からもらった名刺であった。
「死者が生者に手を出すことは、黄泉の法で罰せられます。しかも相手からの承認がない場合は、船頭者と共に地獄に逝くことになります。あなたは、それをご存じですよね」
ゆっくりと館長のもとへ歩きながら、少女に向けて琥珀はいった。
「お前達に、私の気持ちはわからない!ほんとうの死も与えられないまま永遠に同じ場所、同じ痛みを一人で感じ続けることの苦しみを!孤独を!」
少女は見えない壁を何度も何度もかきむしり、叩きつけながら、嗚咽混じりにいい放った。
「さあどうします?彼女はああ言ってますが、館長さんは一緒に逝ってあげますか?」
琥珀は館長を立たせながら問う。
「私は、、、。」
館長はフラつきながら、一歩ずつ目の前で壁を叩いている少女に近づきしゃがみこむと、見えない壁越しに少女と手を合わせた。
「君とは、、、一緒に行けない、、、もちろん、あの金魚は君にも見せたかったんだ、でもほんとに見せたかったのは、私の娘なんだ。」
「でも。その子も死んじゃったんでしょう!」
「、、ああ、でもきっと奈菜は見てくれる。きっと金魚さえいれば、大嫌いな私のところに来てくれると思ってる。その為にしをりと水族館を始めたんだ。
もう何十年も昔の事なんで忘れかけていたが、、、、君のお陰で思い出すことが出来たよ。
ありがとう、、、だから、君とは行けない」
館長は優しく少女に話した。
少女は壁に手をついたまま下を向いていたが、しばらくすると広がり膨らんだ髪の毛も落ち着き、会ったときと同じあどけない少女の姿に戻った。
壁越しに重ねた手を握りしめると、大粒の涙が流れた。
「その子の事がほんとに大好きなんだね、、、、いいなー、それだけ思ってもらえて。私もそんなパパに育ててもらいたかった」
そういうと少女は名刺からそっと手を離し、立ち上がるとゆっくり後ろに下がった。
「さようなら。奈菜ちゃんに会えるといいね」
そう言って笑顔を見せると、ふわっと浮き上がり壁の中に溶け込むように消えていき、同時に壁を作っていた名刺も役目を終えたのか、館長のひざ元に音もなく落ちた。
いつの間にか側に来ていた琥珀が、それを拾って館長に差し出すと、館長は右手でそれを握りしめた。
「館長さん、自分を責めなくていいのですよ。危うく彼女に黄泉の世界に生きたまま連れていかれかけたのですから」
「ですが、あんなに必死に救いを求めていたのに私は何も出来なかった。なにか少しでも彼女を助けてあげることはできなかったのでしょうか、、、」
館長は声を押し殺しながら、琥珀に尋ねた。
琥珀は大きく深呼吸すると、顔を曇らせ話し始めた。
「実は、、、彼女は十年程前にこの水族館の近くの交差点で交通事故にあって命を落としたんです。この近くで父親と二人で暮していて、その日はお父さんの仕事が久しぶりに早く終わるので、この水族館に行く約束をしてました。
ですが、お父さんに急な仕事が入って、待ち合わせの水族館前に来るのが遅くなってしまったんです。
少女はいくら待っても来ないお父さんに捨てられたと思い込み、泣きながら交差点に飛び出して車に轢かれてしまいました、、、」
琥珀が話し終えると、
「私はまた、彼女につらい思いをさせてしまったのか、、、、」
館長は大きく肩を震わせた。
琥珀は暫く館長を見ていたが、揺れる肩にそっと手を置くとやさしく語りかけた。
「そうでしょうか。私はむしろ救われたと思います。あの子は、親に思ってもらえていない、約束を守ってもらえなかった不信感を持ちながら死んでしまったんです。
ですが、あなたは約束をしっかり守って金魚を見せ、亡くなった娘さんの為に待ち続けることを選んだ。そして何より彼女に対して優しく接してあげた。
だから彼女は最後、笑顔を残していったんだと思います」
館長は琥珀の言葉で落ち着きを取り戻し、しばらく少女の消えた場所を静かに見つめていた。
「そういえば、館長さん。あなたが倒れていたので、あの水槽に金魚をそのままいれたのですが良かったですか?」
琥珀の明るい声が重たい空気を変える。
館長は我に帰り、声の先にある、いつもは水だけが循環させられていた水槽を見ると、一匹の赤い金魚が酸素の気泡と戯れるように泳いでいた。
館長はおぼつかない足取りで水槽に近づき、金魚と水槽の状態を確認し、
「何から何まですみません、琥珀さんと先程別れたあとの記憶が全くなくて、、、でも、お陰で金魚の状態はよさそうです」
そう言うと、水槽の横にいつも置いている椅子に水槽を支えにして腰かけた。
古びた木の椅子は、館長の分身のように体を軋ませた。
「まさか、本当にこの水槽に金魚が入る日がくるなんて、、夢を見ているようです。奈菜や妻にも見せたかった」
「奈菜さんは、どんな娘さんだったのですか?」
金魚を見つめていた館長は、琥珀の質問に少し考えたのち、
「優しい子でした」
「怪我をした動物がいれば自分が食べるのも忘れてずっと看病しているような子で。
私が高熱を出したときも、朝までずっと隣で看病してくれました。
私は彼女と一緒に遊びに行った思い出もほとんどないくらい、仕事しかしてなかったのに、、、」
後ろ手に静かに聞いている琥珀から、館長は視線を金魚に戻し。
「奈菜の最後の日も、見たいと言っていた金魚を見つけてあげられず、見送る事しかできなかったんです。
私は、彼女にとって全くダメな父親でした。
30年以上経ちましたが、どこかでこの金魚を見ていてくれる事を願うばかりです」
琥珀は言葉をかけた。
「娘さんの事、大切に想っているのですね」
「はい、私と妻の子です。どんなものよりも大切でいとおしい存在です」
【トンッ】
突然、金魚が館長に向かって水槽のガラスにぶつかってきた。そして何度も、何度も。
「、、、、!?」
「琥珀さん?これは!
この金魚はもしかして!?」
「奈菜さんですよ」
琥珀は優しい笑顔で答えた。
「奈菜!ほんとに奈菜なのか!」
真っ赤な金魚は、まるでフラメンコを踊るように軽やかに何回も何回も宙返りをして答え続けた。
「こんな奇跡がぁ!」
館長の目から大粒の涙が、止めどなく流れだした。
「奈菜!奈菜!奈菜、、、ごめん、今まで何もしてあげられなくて、そばにいてあげられなくて」
水槽を抱き締めて、言葉をかけると、金魚は心配そうに館長の前を行き来した。
「館長さん」
琥珀は、館長の横に立つとゆっくり話し始めた。
「奈菜さんは亡くなった時、黄泉の世界に逝くのを拒んだんです。
今逝かないと浮遊霊となり、永遠にさまよう事になるともお伝えしたのですが、どうしてもお父さんのそばにいたいとおっしゃられて、魂だけの存在としてこの世にとどまったのです」
館長は顔をあげ、涙を押さえながら心配そうに泳ぎ回る奈菜を見つめた。
「ですが、良かった。こうやってあなたに会うことができて。彼女もほんとに嬉しそうです」
そう言うと、琥珀はガラス越しにそっと奈菜に触れた。すると、奈菜も軽く頭を下げた。
それを見た館長は、琥珀に怖くて聞けなかった質問をぶつけた。
「琥珀さん、貴方は一体何者なんですか?!」
「私は、あなたがたのいう【死神】のような者です」
ネクタイを直しながら、さらっと話す琥珀に、少し背筋が凍る感じがした。
会ったときから感じていた、人間とはなにか違う美しさの理由がわかった気がした。
「今回は、ホントに特例です。
生者に魂を託すなんて、あってはならないことですから。
そう、ホントにダメなんですよ」
なぜか二度言ったあと、
「少し言いにくいのですが、この姿で彼女を留めておくのもあと数時間が限界なんです。
この世界の理に反しますから」
それを聞いた館長は、琥珀の方に向き直り、顔が床につくほど頭を下げた。
「琥珀さん、奈菜を!奈菜を人間にすることはできませんか!私の出来ることならどんなことでもしますから!」
必死に頼み込む館長に、
「残念ですが、そんなことをできる力はありません」
「では、さっきの少女がお願いしたように、私の命を奪って、、黄泉の世界に娘と共に行かせてください」
「私には、今のあなたの命を奪うことはできません」
琥珀は即答した。
「生者の命をどうこうする権利は、私にはありません。奈菜さんもそのつもりは無いようですし」
館長は水槽にしがみつき、奈菜を見つめた。
「奈菜、どうして会いに来てくれたんだ。
あの少女のように魂を取りに来てくれたら喜んで渡したのに、、、。
ようやく会えたのに、、、またすぐ別れないといけないなんて、、、こんな辛いことはない」
「館長さん。
奈菜さんから【気持ち】と【伝言】を預かっているのでお伝えしますね。
奈菜さんは、あの椅子に座って、何も入っていない水槽を眺めて毎日重いため息をつき、自分のことを悔やんでいる、そんな貴方のことが心配でたまらなかったのですよ。
だからどんな姿でも、どんなに短い時間でも、貴方のそばに行きたかったのです。
そして貴方にもう悔やまないで、楽しく生きてもらいたい」
これが、彼女がこのような形であなたに会っている【気持ち】です。
そして、
【パパのことが、世界中の誰よりも大好きです】
これが、奈菜さんからの最後の【伝言】です」
それを聞いた館長は声をあげ水槽の下に崩れ落ちた。水槽から見守っていた奈菜(金魚)の目には、大粒の気泡が溜まっていた。
「そろそろ時間です」
止まった時が、琥珀の声で動き出す。
「館長さん、奈菜さんとのお別れを。もう彼女を黄泉の世界に連れていかなければいけません」
「黄泉の世界?奈菜は、天国に行けるのですか?」
館長は、驚いて琥珀に聞き返した。
「ええ。彼女は先程のお嬢さんが望んだのと同じように、暖かい光を目印についていけばいいだけですから」
琥珀は、優しく奈菜(金魚)に話す。
「琥珀さん、何をいっているのですか?!琥珀さんが連れていってくれるのですか?」
館長は、希望の光を見つけたように喜び、琥珀をみつめた。
「いえ貴方が連れていくのですよ、館長さん」
琥珀は、まるで館長の問いかけを予想していたかのように、胸の前で軽く指を振りながら返答し、館長は、予想外の返事に当惑しながら、
「さっきは、生きている者の魂には、何も出来ないとおっしゃっていたではないですか。
何かわたしに出来る別の方法があるのですか?!」
館長は困惑した表情で聞き返した。
すると琥珀は、艶のある唇の前に人差し指を一本立てると、
「奈菜さんを連れ帰るときの約束、覚えておられますか?」
「約束?」
「はい。あなたの大切な物を頂くという約束です」
館長は息を飲んだ。
「そうです。あのときの貴方が大切にしていたことです。
【70歳がくるまではどんなことがあっても水族館を営業するという、しをりさんとの約束】
それを頂きました。
だから残念ながら、貴方はあと1日残っていた約束の日を待たずに、人生を終えることになります」
琥珀はいつの間にか、館長に触れるほど近くに立っていた。
館長は、激しく打ちつける鼓動を諌めるかのように握った手を胸に押し当て、
「琥珀さん、私はなんと、なんとお礼をいえばいいのか、、、。
もうなんの未練もありません。喜んで旅立ちます」
館長は感謝の気持ちを込めて、琥珀の手を両手でしっかり握った。
そして、先程までとは違う、自分でも驚くほどの軽い足取りで、奈菜(金魚)のところに行くと、
「奈菜、、本当に長い間待たせてしまったね。これからは、絶対にそばにいて守ってあげるからね。」
そういうと、冷たい水で満たされた水槽を両腕一杯に抱き締めた。
「では、そろそろ逝きますか。
館長さん、しっかり奈菜さんを抱き締めてください。
奈菜さんは、絶対にお父さんから目をそらさないでくださいね」
「では、お二人とも用意はいいですか」
琥珀は二人の前に立ち両手を二人の頭の上にかざすと、両目を閉じ呟くように言葉をつむぎ始めた、徐々に空気が重くなる。
やがてつむぎが終わり、ゆっくり深呼吸して目を開くと、右の瞳が透き通るような金色に変色していた。
神々しさと底知れぬ恐ろしさは見るものの心を絡めとり、意識をも奪い取るだろう。
だが2人は琥珀の言いつけ通りお互いだけを見ていたので、術式の妨げにはならずにすんだ。
色の違う左右の瞳で魂の転化を確認すると、二人にかざした両手を勢いよく天に向かって振り上げた。
すると二人の頭から、とても綺麗な光の花びらが渦を巻きながら舞い上がり次第に何かを形成していく。
やがて腕、足、肩、そして優しく愛らしい顔をした少女と、その隣でしっかりと手を握っている館長の姿が現れた。
「館長さん、奈菜さん、お互いにしっかり二人の存在を感じられてますか?」
輝く二人は笑顔で頷く。
「では、館長さん胸元に入っている名刺を出してください」
胸ポケットと思われる場所に手を入れると光輝く名刺があらわれ、手から離れると輝きを増しながらゆっくりと上昇していく。
「その光を目印に、決して離れずに進んでください。その光があなた達を迷うことなく黄泉の世界に導いてくれます。」
館長達の姿も、徐々に光に満たされ光る名刺を追うようにゆっくり登っていく。
「あと向こうに着いたら、さらに強い光が迎えに来ているので迷わずそちらの方に向かって下さいね」
館長はその言葉に頷いた、そしてさらにしっかりと奈菜を抱き締め、強い光の塊となり、さらに上に登り柔らかな光の中に吸収されていった。
琥珀が最後に見たのは、しっかり奈菜を抱きしめながら光を見つめる館長とこちらに手を振る奈菜の姿でした。
「ふぅ、、、、。
無事に逝けたようですね。」
光が消えるとそこには何事もなかったかのようにモニターの光が点灯する館内で、水槽の上に飾っている今は亡き、三人が写った古びた紙の写真を眺める琥珀の姿があった。
「しをりさん、貴女の願い通りお送りましたよ。
ま、ほぼ貴女のお考え通りでしたが、、。
お迎えはお願いしますね」
そういうと、満足げな表情をたたえ、水槽を抱えたまま動かない館長と館長の側の水面で浮かんで動かなくなった金魚を見やった。
「では、そろそろ時間ですね」
琥珀は、動かなくなった館長達に深々とお辞儀をすると片手を上げ手首をくるっとひねった。
【パチン】
全ての明かりと音が消えた。
外にでると、いつもと同じ営みと雑踏が響き、まるで何事もなかったようで、寂しくもありがたい、いつもの気持ちになった。
琥珀が大きく伸びをしていると、雑踏の音の中、パトカーと救急車のサイレンが近づいてきた。
やがて古びた水族館の前に止まると、半分上がったシャッターを持ち上げ救急隊員が慌ただしく入っていく。
それを取り巻くように人々が集まり騒がしくなってきた。
「あとは、お任せします」
そういい残すと少しは慣れた場所から救急隊員に軽く会釈をし、人の少なくなった路地に向かい歩き始める。
「ママ見て! あそこの黒い猫ちゃん、赤いお魚咥えてる!」
私を見つけて喜ぶ声を聞きながら、静かな路地に溶け込んでいった。
【魚のいない水族館】
おわり。