悪癖 物見幽山
「行かれるんですか?
雨が...降りそうですよ?」
玄関先で声をかけられる。
闇夜の所為か僕は彼女が近くに来るまで気付かず、
声をかけられて肩をビクつかせた。
その時の僕は背中から声を掛けられるまで、
布で包んだ天体望遠鏡を自転車の荷台に括り付けているところだった。
振り返って彼女を安心させる様に明るく返事をする。
「もう少ししたら晴れるかも...
アハハ、無駄足になっちゃうかも知れないけどね」
彼女の前でおどける、
自分にしては随分と嘘が上手になったと内心驚きながら。
「うふふ、相変わらず星空に夢中なんですね?
風邪を引いても知りませんよ?」
彼女もおどけて返す。暗い夜道、雨の降りそうな山道、
そこらの婚約者なら僕をもっと止めただろう、彼女は寛容な人だ。
「それじゃあ行って来ます。
閑子さん、留守をよろしくね。
先に休んでくれて良いから」
「はい、お気を付けて」
屋敷を出て町外れに向かって自転車を漕ぎ続けると、
段々と明かりは少なくなり、次第に胸の内で増していくのは、
孤独感と、開放感。そして心細さと高揚感だ。
以前と同じ、
星空を一人で静かに見れる期待感と似た感覚だが、
確かに違う、
その高揚の底には不穏な動揺と、後ろめたさが混じっていた。
やがて町明かりは無くなり、緩やかに道は登り始める。
この辺りまで来ると虫の音が五月蠅く感じた。
その道をしばらく漕いで行くと、右側にガードレールで遮られた崖下、
左側に木の生い茂る急な斜面、その途中に、
一本の細い山道が見えて来る。
「ふぅ...随分と慣れたな...」
元来体力に自信の無かった僕にしては、
町外れまでの登り道だけで十分にハードな道のりだったが、
今は大分マシだ。体力も少しづつ着いて来たのだろう。
僕は水筒の水を二口ほど飲み込んで喉を潤すと、
自転車を山道の脇に横倒しに置いて、
その一層暗くなった山道を登り始めた。
横目に自転車の荷台を見ながら思う。
以前はあの重たい望遠鏡を担いで登っていたのだから、
余計に大変だった、今はそれに比べれば楽なものだ。
暫く登った後に一度振り返って景色を見ると、
木々に隠れながらも町明かりはまだ見える。
見下ろした先の小さな明かり達、彼女はもう眠っただろうか?
本当に良く出来たお嫁さんだ。
僕が奔放に夜中の天体観測をしようと、
新婚間近の相手を家に一人にしようと、
彼女はいつも怒る事も無く、不満を口にする事も無い。
何であっても彼女には不満に成り得ないのだ。
だから彼女は僕にいつも優しい。
僕は再び山道を登り始めた。
登りながら感心する、やはりこの道は素晴らしい。
山を回り込む様に登る細い山道はゆっくりと景色を変えて
町の明るさを置き去りにしていく。
そしてすぐ隣の山と今いる山に挟まれて
眼下に人工物は無くなり、明るいのは空の星と月明かりだけ。
今日が晴れていれば満天の星が宝石の様に輝いただろう。
以前使っていた山道よりもこちらの方が優れている。
天体観測が目的ならば、だが。
静かな山道は登れば登る程に木や草が濃くなる。
しかし不思議とそれに比例して虫の音が少なくなっていった。
徐々に深まる静けさの中で、
余計に離れていく場所の嫌な思い出が蘇る。
今朝も父は僕に気付かなかった、僕の事を、自分の息子を、
沢山いる医院の医者の一人に見えたのだろうか?
父は僕と滅多に目を合わせない。
興味が無いのだ。仕方のない事だと思う。
父も僕と同じ様に、お見合い結婚だったと言う。
婿養子で、何より父には医者としての才能が無い。
医学の知識量はギリギリ医者同士の会話が出来る程度で、
手術の腕前は息子の僕から見ても危なっかしく思う時がある。
そんな父の頼りなさは周りから見て明らかだった。
それら全ての他者からの目に、父は気づいている。
だから父は必死なのだ、自分の事に必死で、
僕を気にした事は小さい頃から殆ど無かった。
母は僕に優しく大人しい人だ。
小さい頃は僕に甘く、親身に面倒を見てくれていた。
だが、最近は僕との会話も少ない。
母は僕が子供の頃、一度泣きながら僕に謝った事がある。
僕が父の頼りなさを友達にからかわれた時の事だ。
町でもそういう噂は立っていた、
婿養子として来た新しい院長はだらしないと。
幼い僕は家に帰って母に泣きついて、
その時母は言った。
「ごめんね?お父さんが、もう少し
しっかりしていてくれたら...」
そう言いながら僕に泣いて謝った。
その時に僕が理解したのは、
自分の母親が父親の事を好いてはいないという事。
今なら良く分かる、母は自分のお見合い結婚を悲しんでいた。
それを僕に謝ったのだ。自分の悲しみを息子である僕に。
本当は言って欲しかった、その子達が間違っていると。
僕の父親を庇って欲しかった。
母もまた、いつしか僕を見なくなった。
大人になった僕が、父に似てきた所為だろうか?
代わりに実家に下宿している若い医学生と仲が良く、
よく庭の隅に置かれた、古い物置の整理を手伝ってくれるそうだ。
そして閑子さん。
父と母の関係と同じ様に、
彼女とは所謂お見合い結婚だ。
いや、もっと妥当な言葉がある。
そう、所謂...
「政略結婚か、時代錯誤と笑いたいが...
自分がその当事者ではな」
僕たちの間で、医院の未来を見据えた最善の選択がされた。
祖父が僕たちの医院の為に決めた縁談。
僕たちの為の、恋愛では無い。
彼女は慎ましく、お淑やかな令嬢だった。
容姿も美しく、家事も卒なく熟してくれる。
いつも僕に優しく、いつも穏やかな態度だ。
少しも動じた事など無い。
今日も僕を止めはしなかった。
あの出来事があった後も、僕は変わらずこの山に登っている。
一か月ほど前、
僕はいつも使っていた広い山道を使うのを止め、
この細い山道に目を着けた。
昼間でも人の殆ど通らない忘れられたような山道を
普段は敢えて避けていた。
余りに暗く、薄気味の悪い雰囲気を嫌っての事だった。
しかしその日は久しぶりに慣れない酒を飲み、
少し気が強くなっていた。日頃の陰鬱なストレスの所為もあっただろう。
登ってみると思った以上にこの山道は星を見るのに適していて、
その時は年甲斐も無く子供の様にはしゃぐ心持ちだった。
そして、そろそろ山深くなり、
星の輝きだけに変わった辺りの暗闇の中、
観測に適した場所を探して歩き回ると
僕は木々に囲まれた霊園に辿り着いた。
それは小さな規模で、墓石は40ほどの、
手入れのされていない寂れた場所だった。
気味が悪く、直ぐに移動しようとしたが、
僕は微かに聞こえる呻き声に足を止めた。
振り返り霊園の片隅に目を凝らすと、
2人の人影が見えた。
僕が言うのも変だが
こんな所に人が居るなんて。
こんな場所にこんな時間、
その人影はきっと危険な犯罪者か、異常者に違いない。
そう思ったが、その呻き声が気になり、
木々に隠れて覗き見ると、その二人組は向かい合い、
片方が片方の首に両手を伸ばしていた。
首を掴まれた方の老人は表情を苦しそうに歪め、
途切れ途切れの声を漏らしている。
もう片方は、長い髪の女の様で、赤い着物を着ていた。
老人の首を掴みながら、肩を震わせて、
「うぅぅぅ...うっ...ひっ...」
すすり泣いていた。
長い髪に隠れて表情は見えない。
僕は異様な光景に声を失い、
体は震えて動けなかった。
その隙に、老人の声は聞こえなくなり、
ドサッ、ザザザ、ザザザザザ...
老人の姿が視界から消える。
地面に落ちた様だ、
僕の場所からは墓石の群れと草木が邪魔で見えない。
「あうぅぅぅぅ...ふっ...うぅぅぅぅ...」
その後も、女は悲しみの声を漏らし続けて、
ゆっくりと、こちらを向いた。
その視線に射貫かれた様に、
僕の心臓が跳ね上がる。
「うわあああああああああ!!」
彼女が僕に気づいたかどうか分からない。
こちらから彼女の顔は相変わらず長い髪に邪魔されている。
でも、恐怖心が僕の悲鳴を搾り上げ、
僕は振り返って一目散に走って行った。
山道を降りて自転車に跨り
僕は必死でペダルをこぎ続ける。
家に辿り着いた先で、閑子さんは僕を見て驚いた。
僕は泥だらけで息を荒げて、身体も所々傷だらけだった。
どうやら夢中で帰った途中で何度も転んでいた所為で
血だらけになっていた様だ。
僕はその夜、体中の震えが中々止まらず、
眠れぬまま迎えた翌日に警察に連絡をした。
自宅で事情徴収を終えて現場検証に同行する事になり、
そこで僕は殺害時の状況を事細かに説明した。
そこではっきりしたのだ。
警察は僕が酔っていた所為で幻の様な夢を見た、
つまり殺害など実際には無く、僕の思い違いだと。
そして僕の中でも明確になる。
彼女の正体が。
僕と警察が見に行った殺害の場所、そこは
草木の中からは見え難いが、墓場の片隅は足場が崩れて崖になっていた。
僕が目撃した殺害現場には足場は無かったのだ。
殺害は足場の無い空中で行われた。
だから警察は僕の見間違いだと断定し、僕は、
彼女がこの世の者では無かったと知る。
あれは幻でも、見間違いでも無い。
はっきりと脳裏に刻まれた彼女の異様な雰囲気、
男の苦しそうな表情、あの呻き声、
その全ての風景をあれから何度も、生々しく思い出す。
そして何よりの証拠がある。
僕はあれから何度もこの墓所に来て、
何度も彼女をこの目で見ているのだから。
「はぁ...はぁ...ふぅ...」
霊園に近づく前に息を整える。
同時に彼女に嘯いた期待は叶えられ、
いつの間にか曇り空が晴れて星が見えている事に気付いた。
呼吸を沈めてゆっくりと、霊園に向けて歩き始める。
今日も閑子さんは止めなかった。
『もうあの細い山道は使わない』と僕は言ったものの、
あんな事があった後も彼女は落ち着いていて、
優しく僕を心配してくれた。
閑子さんはいつも落ち着いている。
僕が仕事で大きな失敗をした時も、落ち着いて優しかった。
僕が酔って遅く帰って来た時も、
僕が初めてのデートで失敗した時も、
僕が彼女に告白した時も、
僕が彼女を天体観測に連れて行った時も、
彼女との間に子が授かった時も、
彼女は変わらず、いつもと同じ優しい笑顔だった。
完璧で、非の打ち所の無い、無機質な、
無感情な微笑み、無感動な愛情、
彼女はいつも変わらない温度で僕を見つめて話す。
彼女は完璧な、我が家のお嫁さんだった。
全てが順調だ。
家族間に揉め事は無く、
夫婦も仲睦まじく。
そして僕の周りには沢山の味方がいる。
でも僕はその最中でこそ、強い孤独感を感じていた。
彼女は言った。
あの夜は、酷く心配したんですよ?
藤二さんは気が動転していて、
もう危険な事は余りしないで下さいね?
大切な私の旦那様なんですから。
それでも毎夜の天体観測は止めなかった。
彼女は優しい。
「もし僕が死んだら...あの家族は...」
歩き続け、次第に霊園が近づく。
「泣く...」
涙を流すだろう。きっと全員が。
悲しむ事をしてくれる、悲しくないのに、僕を気遣ってくれる。
僕の為に泣いてくれる。
不気味な霊園に近づくに連れて、段々と聞こえて来る。
「うぅぅ...うぅぅぅ...」
僕は木々に身を隠しながら声の方を覗き込む。
墓の群れの中、彼女の歩く姿があった。
彼女は今日も泣いている。
悲しんでいる、それを眺めて僕は感動している。
あの苦しそうな、すすり泣きの声。
あの希望の全く無い、どんよりとした低い擦れ声。
目の高さは背の高い僕の目線より少し低いくらい、
まっすぐに歩いていく。でも、その動きは這っているかの様に重い。
あれは本当の、本物の悲しみだ。
美しい。
「彼女は...ハァ、ハァ、
悲しんでいる。僕も...僕にも...」
言葉にならない。
分からない、自分が今何を望んでいるのか?
彼女の、あの本当の悲しみは
あれは、あの悲しみは、僕には手に入らない。
彼女は何故、泣いているんだろう?
自分に生前起きた不幸を悲しんで?
それとも、誰か愛しい人を亡くしてしまったのかも。
僕は?
羨ましい?それとも、妬ましい?
あんな風に僕を悲しむ人も想う人も居ない。
何にせよ、僕はどうしようもなく、
彼女に魅かれている。
彼女は今夜も霊園の中を歩き続けている。
揺れる身体を真っすぐと運ぶ足取り。
昼間警察と見た時に知ったが、霊園は中央に10基ほどが並び
それを残りの墓たちが取り囲む様に一周している。
その所々壊れた石道を彼女は真っすぐ歩き、
行き止まりの墓に両手で触ると、向きを変えて歩き出す。
そんな風に彼女はこの霊園を延々と回り続けている。
僕はそれを一本の木に身を潜ませて覗き見ている。
霊園の隅にある木で、彼女にとっては曲がり角、
木に隠れて彼女に正面から見られる事は無く。
曲がった後の彼女の横顔がこちらからは良く見える。
僕が見つけた安全に彼女を見れる隠れ場所だ。
ぺたっ、ぺたっ...
彼女が墓石に触れる音がする。
もうすぐだ、もうすぐ彼女が曲がり角を曲がる。
息を飲んで体を固める。
服の擦れる音すら起こらぬ様に、
呼吸も細く、静かに。
「うぅ...うっ...うぅぅぅぅぅ...」
彼女の声と共に、彼女の姿が草木の間から現れ、
直ぐに遠ざかって行く。
見れた、少しだけ長い髪の間から
彼女の白い頬も見れた気がした。
近づいたのは一瞬、あっという間に横顔は後ろ姿に変わり遠ざかって行く。
この場所はやはり良い。しかし不満も大きく残る。
横顔だけ、ほんの一瞬の横顔だけしか見れない。
出来れば見たい、彼女の顔を正面から見てみたい。
どれ程その悲しみは真に迫った物だろう?
真実の感情が、痛みがそこにある。
遠ざかる彼女は頭に薄い布を掛け、
片手でボロボロの茣蓙を抱えていた。
本で見た通りだ。
あの茣蓙で客の相手をする。
彼女は夜鷹だ。
彼女の姿を見てから、どこかで見覚えのある風貌である事に気づき、
僕は調べものを始めた。
結果分かった事は彼女は大昔の売春婦であり、
中でも下級に位置する夜道での売春婦であった。
そんな彼女は何を悲しむのだろうか?
僕は咄嗟に体を木の後ろに引っ込める。
霊園奥まで行った彼女が曲がり、
その横目に僕を見つけるのでは?
と恐れたからだ。
もし彼女に見つかれば、
あの老人の様に僕もあの世に連れて行かれるだろう。
それでも僕は、
彼女の顔を覗きたいという衝動に逆らえない。
彼女を見る為に始まったこの、
毎夜のかくれんぼに僕は夢中になっていた。
「行ってみようか...」
僕は遠ざかった彼女の背後に目をやる。
その反対側の曲がり角、古びた看板を見ながら胸が高鳴る。
あそこに行く事を想像しただけで冷や汗が出る。
あの裏側で待ち伏せれば、
その看板はきっと僕の姿を隠してくれるだろう。
だが看板の所々に穴が開いていて、隙間が幾つも開いている。
その隙間から彼女が僕を見つけるかも知れない。
でもだから、僕の方からも彼女の姿が良く見える。
あの看板からの覗き穴なら、彼女を正面から見る事が出来る。
「うぅぅぅ...うっ、うぅぅ...」
彼女の声が段々近づく。
もう一度看板に目をやる。
あの看板の下は草が多く確かに足元も隠してくれる。
だが、やはりあれでは隙間が多すぎるのでは?
横に1メートル程、高さは地面から1メートル半、
屈めば頭も隠すだろう、だが看板の端は抉れる様に木材が腐り落ち、
中心の幾つかの穴も覗き穴と言うには少々大きい。
危険だ、やはり止めるべきだろうか?
(うふふ、相変わらず星空に夢中なんですね?)
(大切な私の旦那様なんですから)
急に湧いて来る怒りと、
悲しみ交じりの情けなさが僕の呼吸を速くする。
僕は、汗ばむ手を握り締め、草木の裏を屈んだまま進み始めた。
カサカサと鳴る細やかな草の音を、
イヤに大きく感じながら。
「うぅぅぅ...うぅ...」
彼女のすすり泣きは絶えず僕の心臓を揺さぶるが、
お陰で彼女の位置が大して変わっていない事が僕にも分かった。
看板の許へ辿り着くとその裏側に周り、
彼女をじっと待つ。
やがて目の前の遠く、彼女が行き止まりの墓に手を触れ、
こちらへ向きを変えた。
叫び声を上げたあの夜を思い出す。
彼女は泣きながらこちらへ歩き続け、ゆっくりと彼女の姿は大きく見えた。
実際に隠れてみるとこの場所は、上空の枝が少なく、
星の光が良く届く場所だと気づいた。
見つかる危険も増えるが、
その分、彼女の姿がはっきりと見える。
そして気付いた。
「何だ?あの手は?」
彼女が茣蓙を抱える手、
それとは反対側の手を彼女は自分の前に差し出し
皿の様に掌を上に向けて何か小さな物を乗せている。
それが何か気にしていると別の事に気づく。
彼女のその指先だ。
爪が無い。
同時に手のらで星の光を受ける小さな
白い物体の正体にも気づいた。あれは彼女のはがされた爪だ。
あれは、本に書いてあった、あれは放爪。
花魁などが客の気を引く為に自分の爪を剥ぎ取って
客に渡して、自分の想いの重さを知らせる風習があった。
彼女はあの爪を渡す相手を探している。
でもあの出で立ち、あれは遊郭の女や華やかな花魁などでは無く、
間違いなく夜鷹の出で立ち、彼女に大金を払う客などいない。
それとも彼女は蕎麦一杯の金の為に爪を剥いだと言うのか?
彼女は気が触れているのだろうか?
だが分かった気がする。
彼女の泣いている理由が。
彼女は身請けを待っているのだ。
自分が報われる為に、来る筈も無い身請け人を探して彷徨っている。
彼女は自分の為に泣いている。
僕は彼女が誰かを想って泣いているのかと
勝手に想像して、そんな想いに憧れた。
僕の思い過ごしだった。
でも、余計に胸が高鳴る。何故だろう?
ビュウウ...
不意に吹き抜けた風、それが彼女の髪を揺らすと、
彼女の首元と同時に頬が露わになる。
そして知り、僕は泣きたくなった。
「耳が無い、切り取られている」
爪を手に持ち彷徨う彼女は頭がおかしくなっていたのだろう。
そんな彼女を周りはどの様に扱ったのだろう?
酷い目に会ったんだ、誰かに彼女は愛される代わりに、
ただ無情に、ただ無関心に。ただ無感動に。
似ている、僕と同じだ。
心を通わせる相手を待ち、ついぞ現れず、
今彷徨っている僕達は似ている。
彼女は身請け人を探している。
あの時の老人は、彼女に見初められたから
殺されたのか?それとも、身請けとして相応しく無かったのか?
僕には判別のしようが無い。
いずれにせよ確かな事は、彼女はまだ探し彷徨っている。
きっと、
あの老人はきっと、彼女に認められなかったのだ。
あの老人は彼女の身請け人として認められなかった。
だから彼女は今も彷徨っている。
彼女がついに目の前まで来る。
覗き穴から見る彼女の顔は屈んだ僕の視線からは高く、
見上げる形になる。
そしてその長い髪の奥が見え、
彼女と目が合った。合った気がした。
実際はどうだろう?
彼女にバレているのか?
実際は?
僕は彼女から隠れたいのか?
それとも見つけて欲しいのか?
「僕には...僕は?」
声が零れる、それは見つけて欲しいから発したのか?
それは見つからない様に小声だったのか?
彼女には聞こえたのか?分からない。
定まらない思惑、恐怖と高揚を同時に震え上がらせながら、
僕は彼女が近づくのを見届ける。
そして彼女は看板に手を伸ばし、そのまま、
すり抜けて僕の目の前に進み出た。
僕はいつの間にか涙を零しながら
その場に座り込み、恐怖の所為か?喜びの所為か?
動けなくなっていた。
彼女が僕に近づく。
風に彼女の髪が揺れる。
もう少し彼女が近づけば、
君の顔がやっと見れる。
僕は震える声で彼女に話しかけた。
「僕も連れて行くのか?
僕なら...僕なら...」
そうだ、僕なら、あの老人とは違う筈だ。
「君と同じだ、誰もいないよ?
僕を愛する人も、僕を悲しむ人も、僕を思い出す人も、
誰もいないんだ。
だっ!だからっ!君を見つけたんだ!!
君に魅かれたんだ!!君だって僕を!!」
彼女の顔が近づく、次第に僕を見下ろす様に、
その長い髪から覗かせた。
見れる、やっと君の本当の顔が。
その顔を初めて見て、僕の震えは全て止まった。
「君は...どういうつもりだ?
あんまりだ...ひ、酷い」
正面から見る事に危険なんて無かった、
彼女に見られる危険なんて無かった。
見つかる訳がない、彼女に語り掛けさえしなければ。
「君は...じゃあどうやって?」
彼女の顔は鼻も削ぎ落されていた、そして何より、
彼女の目は両目とも潰されていた。
涙が止まらない僕の顔に彼女の手が伸びる。
「酷い、何て可哀想なんだ、君は愛する人を見つけようが無い。
非道い、僕は見つけて貰える筈が...ぐっ、がっ...
おおおぉぉ...ぐ...げっ...
うぅぅぅ...うっ、うっ...うぅぅ......」
彼女がその手に力を込め、僕は意識をゆっくりと失っていく。
涙が止まらない、彼女も泣いている。
僕は誰の為に泣いている?
彼女は誰の為に?
誰も見つける事の出来ない二人の泣き声は
昏い霊園に響き、やがて静まり消えて行った。