第三章 崩壊の兆し (2)
(2)
スリノアでの騎士の結婚は、古くからの伝統形式に則って行われる。特に、王宮に勤めるほどの地位ともなると、王の許しを乞う意味で、謁見の間にて式がひらかれる。
王座までの長い赤絨毯の道を、正装した二人は並んで歩く。道の両脇には、儀式用の剣を掲げた騎士たちが立ち並び、同胞を祝福する。家族や友人はその後ろに控え、式を見守る。
新郎新婦は、王座の前までたどり着くと、王の前にひざまずく。王は二人の結婚を認め、召使いに三つのグラスを持ってこさせる。
誓いの杯である。
契りを結ぶ二人は、手の甲を儀式用のナイフで傷つけ、その血を一滴、ワインへ注ぐ。グラスは王に捧げられ、二人は互いの血を飲み交わす。
手の甲の傷は、永遠の誓いの証となる。宴の席で手をとり、あいさつのキスをする者に、その女性が一人の騎士のものであることを知らしめるのである。騎士の妻を奪わんとするものは、剣で裁かれる覚悟を持たなければならない。
二人は杯を置き、再度、礼をする。
王の祝福の台詞に合わせ、立ち並ぶ騎士たちが揃って一歩前へ出る。そして、己の向かいの騎士と剣を軽く打ち合わす。澄んだ音が冴え渡り、騎士たちは剣を引いて元の位置へ戻る。
夫婦となった二人は、騎士たちの間の赤絨毯を並んで歩み、謁見の間を去る。
この後、通常ならば披露宴がひらかれる。が、今日のベノル=ライトの結婚はあまりに急であり、遠方の貴族や領主の都合がつかなかった。急遽のこしらえで、儀式のみ執り行ったのである。
手の甲を包帯で処置し、夫婦はそれぞれに正装を解く。そして、邸宅にて、ようやく二人きりとなるのだ。
ライト邸は、王宮のほど近くにある。
多くの騎士を抱え、育て上げる施設がそろう建物である。当然、世話役などの召使いの数も多い。住み込みで働く者もおり、建物内の独立した部屋の多さは、小さな宿屋の比ではなかった。おそらく、スリノアのどの領主の館と比べても、郡を抜いている規模である。
ベノルの自室は、二階の奥に位置する。
本来ならば、ライト家当主が住まいとする場は、一階の奥である。クーデター勃発時に最後まで城に残り、戦い果てたと言われているベノルの父が、使用していた部屋である。執事は華々しく帰還したベノルへ、部屋を移るようにと進言した。しかし、ベノルは「必要ない」と取り合わず、幼少の頃から与えられていた今の部屋に居続けている。
彼の自室には、大扉の先の広々とした応接間と、そこからつながる三つの部屋がある。その三つの部屋のうち、彼は一部屋を寝室として使用しているのみで、残り二部屋は「客間」と称してほぼ手をつけていなかった。仕事を持ち帰ることの滅多にない彼には、それで充分だったのである。
「この部屋を、自由に使うといい」
ベノルは、この五日間ですっかり整えた「客間」のうちのひとつを、妻にあてがった。彼女が何を好むか分からなかったので、ベノルはできる限り質素な、しかし上質な家具を選び、使用人たちに揃えさせた。鏡台にはひととおりの化粧品が並べられ、開け放されたクローゼットには部屋着からドレスまで、ワオフの絹織物も交えた美しい衣服がぎっしりと掛かっている。
女であれば誰もが喜びそうな、夢物語のような住まいであるはずだった。
しかし、部屋の扉を開いてみせるも、彼の妻に反応はない。ロングドレスで身を包み、ただ冷たく美しく、佇むだけだ。
式の間は、儀式に必要な文言のみであるが、口を開くことはあった。が、ライト邸に連れて来られてからというものの、彼女は押し黙ったままである。ベノルが立つ位置の反対側に飾られてある、二本の宝剣と絵画。それを眺める細い背中は、頑なに全てを拒んでいる。
ベノルは、騎士のたしなみとして議場以外では常に腰に下げている愛用の剣に、そっと触れた。そうしてその存在を確かめてから、彼はいよいよ、王女の心へ踏み込んだ。
「ダナ」
厳しい声で名を呼んだとたん、彼女は予想に違わず、はじかれたように全身で振り返った。憤怒の形相で、ベノルを睨みつける。
「無礼な! 私をその名で呼ぶことを許されるのは、私の家族のみであるぞ」
「私は、おまえの夫だ。家族ではないのか?」
ダナの顔が、怒りに赤く染まった。
「『おまえ』だと……ふざけるな!」
「ふざけているのは、おまえの方だろう」
ベノルの声は、辛辣であった。己の決意を確認するかのように。
「私の妻となった以上、スリノアの伝統と慣習に従ってもらう。まずは、その言葉遣いからだ。ひととおりの教養を身につけ、歴史を学べ。専属の教師をつけてやる」
「おのれ、モノにしたとばかりに手の裏を返しおって!」
「承知していたのではないのか?」
ダナは、血がにじむほどに強く唇を噛んだ。瞳はやむことなくベノルを憎悪し、歯形の残る紅い唇が、呪いの言葉をつむいだ。
「殺してやる」
「できるものなら、やってみろ。だが、忘れたわけではあるまい。おまえは一度、私の足元にも及ばなかった」
ダナはドレスをひるがえし、壁に飾られていた宝剣を手に取った。そのまま鞘を払い、流れるような動作で猛然と襲いかかる。ベノルは冷静だった。先ほど確かめたばかりの剣の柄に手をかけ、抜き払う。
そのたった一動作で、勝負はついた。宝剣は遠く壁に突き刺さり、英雄の剣は褐色の首筋に当てられていた。
女は一縷の迷いも見せず、嘲笑を浮かべて言った。
「さぁ、殺せ」
ベノルは動かなかった。ただ、彼女の美しく魅力的な首筋と、己の剣の鋭い刃を眺めた。
「どうした、殺せ。殺せ!」
罵声を浴びながら、当然であるはずの夫婦の初夜を想う。
今夜、この女を腕に抱くのか。
そうすることは、間違いなのでは。そんな気がした。
しかし、ならば何が正しいというのか。
ベノルもまた、運命に翻弄される八年を過ごしてきた。そして、歴史の身勝手さ、正義の概念の危うさ、悪との境界線の曖昧さを、思い知っていた。
正しいか。
間違いか。
「殺せ!」
ダナの再度の叫びで、彼は思考を中断させた。どちらにしろ、迷いのあるうちはよしておこう、と嘆息する。
「ダナ。おまえのために用意した部屋には、生活のための全てがそろっている」
剣を引かぬまま、ベノルは想いを告げた。
「しばらくは、寝室は別にしよう。おまえの部屋には、私は絶対に足を踏み入れない。これだけは誓う」
ダナは、鼻で笑った。
「男はいつも、最後には力ずくで女を支配する。どこまでそのような戯言を貫けるか、見ものだな」
「そうか。では、見ていてくれ」
さらりと言い、ベノルは剣を引いた。ダナが後方へ跳び、距離をとる。
「気が向いたならば、私の寝室へ来るといい。持てる技術を尽くして、歓迎する」
「おぞましい」
吐き捨てられ、ベノルは包帯の左手を額に当てた。あまりの苦々しさに、苦笑がもれる。この若くハンサムな英雄の誘いに対しこのような反応をする女が、存在するとは。
「今日は、疲れたろう。何も考えず、眠るといい。そうだ、アニタ、といったか」
刹那ではあるが、その名に反応したダナの顔は、憎悪から解放された。
「おまえの世話役として、ワオフから呼んである。明日の夕方には、ここへ着くだろう。他に入用があれば、その都度、言ってくれ。彼女を通してでもかまわない」
警戒心あらわに彼を睨むダナは、追い詰められてなお牙をむく獣のようであった。ベノルはしばし、そんな妻を見つめた後、ささやくように言った。
「おやすみ、ダナ」
剣を収め、背を向ける。寝室へのドアノブに手をかけた時、ダナが壁に突き刺さる宝剣を抜き取った。いささかうんざりしつつ、ベノルは再び鞘を払う。鋭い一撃を受け流し、次の瞬間には、彼女の豊満な胸元へ切っ先を当てた。
動きを封じられたダナは、不気味に笑んだ。
「愛しい者に憎まれ、命を狙われるのは、どんな気分だ?」
「絶望が、この身を切り刻むようだ」
ベノルはゆっくりと腕を動かし、彼女の肩に剣の平を滑らせた。そうして接近し、静かに唇を重ねた。
「憎き男に、口づけをされる気分はどうだ?」
「吐き気がする」
ダナは言い捨て、宝剣を手放した。ベノルが剣を引くが早いか、あてがわれた部屋へと引きこもる。
三日間、彼女は出てこなかった。