第二章 色彩に堕ちて (3)
(3)
ワオフの使者がスリノア王宮に現れたのは、その二日後であった。
彼らは無条件降伏を選んだ。スリノア王はワオフ族に自治権を与え、当分は属国として体制を整えるよう命じた。
さらに、王は今後の両国のあり方についての和議を設けるため、使者と共にワオフへ赴く大使を準備してあった。そして、その日のうちに捕虜六名を解放し、一緒に故郷へ送り届けようとした。全ては、滞りなく進められていた。
しかしここで、王は思わぬ障害に出遭った。
捕虜当人であるダナ=V=ワオフが、解放を拒んだのだ。
「負け武将がおめおめと故郷へ帰れるものか。首を切れ」
そう言い張り聞かぬ、というのが報告であった。
仕方なく、先に大使たちを出立させてから、スリノア議会は頭を抱えた。
「困ったものだな」
王が半分、投げやりにつぶやく。建国以来、初の歩み寄りが実現しそうな今、ワオフの英雄である王女の首をはねることがどう影響するか、考えるまでもなかった。
「陛下、これは彼女なりの策やもしれませぬぞ」
貴族代表の意見に反駁する術を、王は持たなかった。
「ベノル。どう思う」
王が議場にて直接、ベノル=ライトへ意見を求めるのは、珍しいことである。誰もが、少年の困窮のほどを知った。
ベノルは、しばしの間の後、いつもの上品な発音で言った。
「陛下。この件、どうか私に一任させていただけませんか」
王は安堵の息をついた。
「何か、打開案があるのだな」
「私も彼女と同じ、武将であります。説得してご覧にいれましょう」
王は、策の内容も聞かぬまま、命じた。
「では、任せよう。どうにか、王女の首を切らずに、事をおさめたい。頼んだぞ、ベノル。皆の者、異存はないな?」
議場を出たその足で、ベノルは地下牢へと向かい、看守から鍵を預かった。
捕虜たちは、故郷の思い出話に花を咲かせていたようだった。しかし、騎士団長の足音に気づくと、談笑はぴたりとやんだ。
ワオフの王女が、固い表情で立ち上がる。憔悴してもなお、凛とした立ち姿である。
張り詰めた空気の中、ベノルは牢の中へ入った。そして、武将の顔で身構える彼女の前に、ひざまずいた。
「久しゅうございます、ヴァルキリー王女」
「処刑以外の用であれば、私はここを出ない」
王女は言い切った。小気味よくふられた、鈴のような声だった。
「貴公は武将でありながら、どこまで私に恥をかかせるおつもりか。スリノア王に掛け合い、早急に処刑を行っていただきたい」
「王女。私はスリノア王に仕える騎士でございます。王の意に従い働くことが、私の喜びなのです。ですから、貴女に指図を受けるいわれもなければ、ましてや、私が王を説得するなど。おこがましいばかりです」
挑発めいた慇懃な言葉に、王女は激昂した。
「ならば、貴公も私に生き恥をさらせというのか!」
「王女、お怒りは察しますが、私はまだ何も申し上げておりませぬ」
ベノルは、向かいの牢からの十の瞳を意識した。この王女を心から慈しんで、見守り続けてきたと思われる男たち。愛する者が迎える運命を知りながら、彼らは最後までその悲運に寄り添おうとした。主への、忠義と友愛。痛いほどに理解できる。ベノルもまた、それを支えに生きてきたようなものなのだ。
だが、それら全てを、彼は裏切ろうとしている。男たちの決意も、王女の覚悟も、少年王の信頼も、己の生き様さえも。
「まずは、貴女にこのような恥辱を与えたことを、深くお詫び申し上げます」
常套句の後、彼は間を置き、王女の顔を見上げた。
あの笑顔や涙の片鱗すら、そこに見いだすことはできない。
それでも、彼の曖昧な世界の中、今やこの女だけが強く艶やかな色彩を帯びている。まるで、毒香を放つかのように。
ベノル=ライトは、その鮮やかさへ、簡単に屈してしまった。わずかな迷いは、抗する間もなく色彩の渦に呑まれて消える。あとはただ、彼も、落ちていくだけだ。甘美な欲望に、身を委ねて。
「解放の件について、納得できぬとの心中、お察しいたします。無条件に野放しにされるなど、負け武将として耐え難い」
「その通りだ」
「では、こうした提案ならばいかがでしょうか。貴女が私の提示する条件をのんだならば、貴女の五人の兵を解放いたしましょう。護衛をつけ、家族の元まで送らせます。しかし、貴女が処刑を望むのならば、兵たちにも同じ道を歩ませましょう」
王女は、忌々しげに顔をゆがめた。
「どうあっても、私の首をはねたくないようだな。国家の体裁か」
「ご選択を」
「決まっている。彼らを解放していただきたい」
向かいの牢から「姫さん」と声が上がる。しかし、王女は見向きもせず、続けた。
「国に帰るという以外ならば、どれほどの屈辱にも耐えてみせよう」
「承知いたしました。急ぎ、準備を整えます」
「して、その条件とは何だ」
「私の、妻となることです」
時が、止まったようであった。
ベノル=ライト以外の誰もが息を殺し、耳を疑った。
「……なるほど」
やがて、怒りに震え、王女は低く言った。
「私は女であるがゆえに、どこまでも政略の道具だというわけか」
「いいえ、王女」
胸をつまらせながら、ベノルは告白した。
「私は一人の男として、貴女に心を奪われました。狂おしいほどに、貴女を愛してしまった……どのような形であれ、私のものにしたい」
そして、改めて、求婚した。
「私の、妻となってください」
その言葉より、しばし後。
呆然としていた王女の顔に、突然、禍々しい笑みが表れた。
それは細波のように彼女全体へ広がり、体の奥底から沸き上がるような笑い声が、地下牢に響き渡った。聞く者の背筋を凍らせる、悲鳴のようなそれであった。
「その条件、のもうではないか!」
王女は、黒瞳を残酷に光らせた。
「私の故郷を焼いた男! 私は生涯、おまえを憎み続けてやる!」
暗い叫びは、ベノルの胸を刺し貫いた。王女は与えた傷の深さを見て取り、歓喜の笑いでさらに抉った。
「おまえが酔狂にも私を愛するというのならば、私はその愛を踏みにじり、おまえを苦しめ続けようではないか。それを糧に生きのびてやろう。喜んでおまえの妻となろうぞ!」
憎悪。
どす黒い濁流のようなそれは、今負ったばかりの傷口から恐るべき勢いで進入し、ベノルの全身へ流れ込んだ。受け止めきれずに吐き気を催し、思わず身をかがめるほどの、流れの重量。こみ上げる不快な感覚を呑みこみ、彼は再び王女を見上げた。彼をいともたやすく屈服させた色彩を、確かめるために。
そうして、ベノルは戦慄した。
やはり彼女は、彼の世界で色づいている。
鮮やかに明るく。そして一方で、見事なまでに艶やかに……黒く、暗く。
美しい、と思った。そう感じる己に、戦慄した。もう逃れることはできない。目をそらすことはできない。己がものにするか、果て無き絶望を迎えるまで。
彼はふらつく足を叱咤し、立ち上がった。目眩をおさえながら牢を出、ただ茫然とするばかりの五人の男へ呼びかける。
「近く、式をとり行います。ぜひ、ご出席ください。今日からあなた方は、私の婚約者の友人として、優遇いたします」
ベノルは看守に、彼らを客人の間へ案内するよう命じた。そして、王への報告もなしに、自室へ引きこもった。
身が張り裂けそうな悲しみに耐えられず、扉を背にして崩れるも、涙は出ない。当然だった。涙など、とうに枯れ果てている。仕方なく、彼は足を投げ出して座り込んだまま、ただ虚ろに宙を眺めた。泣きたくとも泣けぬ。この呪いは生涯この身を苦しめ続けるのだろう、と、英雄は力なく、荒んだ笑みを浮かべた。
この地下牢での求婚は、のちに人々の間に広まることとなる。
あの英雄ベノル=ライトが、薄汚い牢で敵将に結婚をせまった。
愛に憑かれた英雄を皮肉り、民衆は笑うのだった。国の未来への、一抹の不安と共に。
第三章へ続く