第二章 色彩に堕ちて (2)
(2)
一夜明けると、街はまどろむような優しさに包まれていた。
祭りが終わり、穏やかで平和な日々が始まる。人々の顔は明るく、希望に満ちている。
一睡もできぬまま早朝の議会に出席しているベノル=ライトは、平和というものについて考えていた。人々は、一体何をそんなに嬉しく思っているのだろうか。その笑顔は、いったいどこから沸いてくるものなのだ。
「ベノル=ライト」
降り注ぐ王の声。
気がつくと、まるで議題が彼に変わったかのような注目のされようであった。
「どうした、気分がすぐれぬか。顔色が悪いぞ」
ベノルは、「ご心配には及びません」と王に微笑みかけた。黒い何かが、胸へ広がる。今、己は何のために微笑んだのだろうか。少なくとも、王を安心させるためという真摯な動機とはほど遠い。では何のためだ。全く意味のない、微笑ではないか。
「では、話を戻そう」
少年王は訝りながらも、務めを果たそうと、議会へ向き直る。
「我々は、ワオフ族の王女を捕虜としているが…」
「陛下!」
衝動的なベノルの声へ、再び視線が集まる。
「彼女をあのような場所へ放置しておくのは、いかがなものでしょうか!」
沈黙の中、ベノルは信じ難い己の行動をようやく認識した。急速に頭が冷えていく。いや、血の気が引いていく。
「ベノル。それは議題ではない」
王は冷静に、議員たちの戸惑いを代弁した。
「気分がすぐれぬのならば、自室へ戻れ。そもそもおまえは本日、休暇の身であるぞ」
ベノルはわずかに頭を振り、王の気遣いへ遠慮の意を示した。彼女の行く末を知るまでは、休暇も休暇にならぬのだ。
「情報によると、ワオフ族の王子は無事、彼らの城へ帰還したそうだ。この状況で、彼がこちらへどういった使者を遣わすかだが」
少年王は、自信たっぷりに言い切った。
「私は今度こそ、和平が成立すると考えている」
貴族代表の一人が、根拠を問うた。王は「特にない」と即答する。
こうなると、ベノルに視線が集まるのが常である。
「ワオフ王子にとって、父はすでになく、英雄視されている姉は捕らえられています。先の戦では、主戦力の八割がスリノアの前に屈しました。この状況で和平を拒むようならば、相当の愚君です」
「そういうことだ」
少年王は白々しく相槌をうち、続けた。
「もしも愚君が戦を仕掛けてきたならば、迎え討つまでだ。二割の敗退軍を征するなど、たやすい。ワオフのとる道は、和平か、滅亡かの二択だ」
ベノルはゾッとした。迎え討つのは、彼の役目である。
「三日待とう。向こうがなんらかの動きを見せぬようならば、こちらから使者を遣わす。異存はあるか?」
不服そうな者はいたが、起立はなかった。
「では、次の議題へ移る」
王はちらりと英雄へ視線を送ってから、切り出した。
「ワオフの王女の処置についてだ。急な議題であるが、ここで取り上げておきたい。私としては、このまま牢につないでおき、交渉の切り札としたい。彼女はワオフの民に、絶大な人気があるようだ」
王は、ベノルに配慮した言葉を加えた。
「また、彼女は客人ではなく、敵将である。このような処遇も、心得ているであろう」
異議はなく、この議題は一分と待たず片付いた。
「では、解散だ。ベノル、おまえは残れ」
議員たちは気をきかせ、早々に議場を後にした。徐々に閑散としていく空間で、少年王は護衛の近衛騎士二名へ、扉の外で待つように命じた。武器の持込が固く禁じられているこの言論の場で、唯一帯剣を許されているのが近衛騎士たちであったが、彼らは素直に王の命に従った。少年王と英雄の間に、剣を用いねばならぬトラブルが起こるなどとは、国中を探したとて誰一人思う者はいないのだった。
すっかり熱の去った、静かな議会場。王は段を下り、思いつめたように座したままのベノルのそばへと歩み寄った。すでに英雄の指定席と誰もが認める、王座から五つ離れた識者席。上質な木材で作られた一枚板の長机を挟み、王は英雄へと向かった。
「ベノル」
呼びかける声には、強い当惑の色が感じられる。
しかし、ベノルは王の目を真っ直ぐに見ることができない。
「……戦より戻ってから、様子がおかしいな」
王は、ベノル自身にも理解しえぬ変化を、問いただした。
「何があったのだ。奪還戦と比べれば、取るに足らぬ戦だったであろうに」
奪還戦。王が指したのは、ベノルが奪還軍を指揮していた頃の、いったいどの戦であろうか。北の大国から国境を越える際の、激戦か。東部の領主の館での、籠城戦か。あるいは、最後の王都解放戦か。
ベノルは様々な戦へ思いを巡らせた。その軌跡は、英雄の栄光の証であると、誰もが賞賛する。自らの指揮によって勝利をつかみ、ひとつひとつ目的を遂げ、周囲に称えられることは、彼にとって誇りであり、喜ばしいことであった。だが。
ベノルはようやく少年を見上げ、「陛下」、と呼びかけた。
「ヘイカと呼ぶな」、と王が応えた。
ベノルが、再び、無意味な微笑を見せる。
その奥に潜むものを見抜くには、少年は幼すぎた。ゆえに、ただ安堵した。
「疲れているだけのようだな。命令だ、邸宅へ戻り、体を休めろ」
はい、とベノルは応えた。いつもと変わらぬ声を装って。
「それから、捕虜たちには毛布を渡すよう、看守に命じておく」
毛布はすでに、王女のもとへは渡っているはずであった。看守は英雄と王の命令が重複することへ、疑問を呈するだろうか。いいや、恐らく、戸惑いつつも表立って何か言いはしないだろう。
そこまで考えてから、ベノルは己が少年へ秘密を作ろうとしていることを自覚した。息子のように、弟のように、赤子の頃から守り続けてきた、少年王。彼のためにとあらば、ベノルはどのような苦痛や恥辱にも耐えてきた。彼の純粋さ、優しさを守るための嘘や秘密ならば、数え切れぬほど喜んで抱えてきた。
しかし、この秘密には、一体なんの意味があるのだろう。
少年のため、ではない。では、誰のための秘密だ。
「まったく。おまえは真面目が過ぎるのだ」
からかうような王の言葉は疑いようもなく無邪気であった。が、何かを見透かされて言い当てられたようにベノルの肝は冷えた。
王は気づいた様子もなく、こう言い残して議場を去った。
「騎士道にはかなわぬが、数日の辛抱だ。体を休めるうちに過ぎるだろう。早く戻って休むことだ」
扉が閉まると、議場はしんと静まる。
ベノル=ライトは一人、識者席の椅子の背に、ゆっくりと体を預けた。そして、両目を閉じてみる。
勝敗を見極める目。政局を見極める目。少年の成長を見極める目。
大きく踏み外したことなどない。彼の慧眼は彼を裏切らずに、道の先を照らし続けてきた。霧に包まれた最果てへたどり着く、栄光の軌跡を。彼の愛するものを守るための、最良の選択を。
しかし、再び開かれた緑の双眸は焦燥に歪む。彼は自らの数日後を支配する闇に、恐怖すら覚えるのだった。