第二章 色彩に堕ちて (1)
第二章
(1)
夜が更けようと、王都には祭りの余韻が残り、未だ人々を熱くさせていた。
ベノルは素直に、彼らをうらやんだ。王宮の騎士団長室から見える、歌い踊る国民たち。彼らはいったい何を得て、何を笑顔に変えているのだろうか。
「ベノル。上の空だな」
デスクチェアを乗っ取っている少年王が、ニヤリとして呼びかけた。
「さては、未来の妻を思い描いていたな。私としても、おまえの幸を案じていたところだ。スリノアも、これで落ち着いた。早く跡取をつくり、皆を安心させてやれ」
相変わらず窓から城下を眺め、ベノルは応えた。
「陛下」
「ヘイカと呼ぶな」
「ジャスティス様、私は一介の騎士でございます。ライト家は代々続いてきた家ではありますが、必ずしも私の子が騎士団長を継がねばならぬということは」
「何を言う。もはやおまえの地位は、王族と並ぶ不動のものだ。世襲であることを誰もが認めているのだぞ」
少年は、意気揚揚と続けた。
「私が、美しく聡明な、おまえに似合う姫を紹介してやろうか。誰もが、喜んでおまえの妻となろう」
ベノルは「姫」と聞き、捕虜として地下牢につないだダナ=V=ワオフを思い出した。
その後の調査で、彼女はベノルの読み通り、ただの王族の姫ではないことが明らかとなった。殺害されたワオフ先王の実子、つまり、王女だったのである。そのうえ、武勇に秀でていた彼女は、ワオフの民から絶大な支持を得ているとのことであった。王女であるが故に、武神の名を借りて目立たぬように徹していたようだが、彼女はまさに、ワオフの英雄であったのだ。
それらを知った少年王は、ベノルの直感を称えた。利用価値の高そうな王女を、よくぞ生かして連れ帰った、と。ベノルも同感ではあったが、応えは曖昧に笑むに留めておいた。
ワオフは例外を除いて、男が王として即位する習慣を守っている。彼女には弟がおり、その王子が、ワオフの王位後継の第一人者であるのだった。王子に何かあった場合には、次に王位を譲られるのは、王の正妻である。単純に考えれば、王女に王位が回ってくる可能性は、それほど高くないと言える。
それにしても、とベノルはかすかに眉根を寄せるのだった。あのような絶望的な負け戦に、王女を大将とするなど。いくら王族として、勇猛な民族に生まれた戦士としての矜持があろうとも、行き過ぎてはいまいか。他に捨て身の武将を買って出る気骨ある男はいなかったのだろうか。女性に剣を握らせるというだけでも、あまり感心せぬというのに。
彼女を閉じ込めてある地下牢は、夜になるとひどく冷え込むと聞く。あのような場所に女性を、それも王女を放っておくのは、やはり我慢ならない。
「若い姫が良いか? それとも、なるべく年の近い婦人か?」
少年王は、騎士ベノル=ライトの葛藤を感ずることなく、揚々と続けた。
「そういえば、おまえの好む女を具体的に聞くのは、初めてだな」
「……楽しそうでございますね、陛下」
「楽しいぞ」
笑顔全開で断言されると、ベノルは苦笑いするしかなくなる。
「私は、美しく教養のある女性を、妻に欲しいです。つつましく、奥ゆかしい女性が」
言いながら、ベノルは初恋の君を思い出した。
14の時だった。家出をした妹を連れ戻しに、街へ降りた時に出会った、明るく元気の良い下町娘。それは、たった今述べた理想の妻とは似ても似つかぬ、じゃじゃ馬娘であった。
深夜、ベノルは毛布を片手に、地下牢を訪れた。
看守をしている二人の兵は、全く予期せぬ大物の訪問に、飛び上がらんばかりであった。
「ら、ライト騎士団長!」
「捕虜に会いたい。かまわんな?」
看守は、毛布ならば自分たちが渡す、と言い張った。
「団長様をこのような場所にお通しするなど、とんでもございません」
おかしな理屈だ、とベノルは苦笑したくなる。騎士団長だからこそ、王宮のどこへでも自由に出入りできるのではないのか。
「ヴァルキリー王女に、会って謝罪したいことがあるのだ」
あなたも武将ならば、わかっておられるはずだ。
彼女はそう言った。しかし、ベノルは首を取ることができず、彼女に生き恥をさらさせている。自らの身に置き換えたならば、耐え難い仕打ちである。その上、彼女はこれから先、王女として、ワオフの英雄として、スリノアに都合よく利用される運命にあった。利用価値がなくなれば、処刑されるのみである。
全て承知で、彼女は戦へ臨んだに違いない。尊い覚悟を見せた若い女性が凍えて眠るであろう現状を、ベノルはやはり、見過ごせなかった。罵声を浴びることになろうとも、この手で直接、彼女の覚悟へ報いたい。そう思った。
「通してはくれぬか」
彼は看守たちを真っ直ぐに見据え、訴えた。
ベノルの緑の双眸には、魔力があると言われている。実際に、そんなものはない。彼はただ、意思を強く持って相手を見つめるだけだ。
しかし、看守たちは魔力に囚われたかのように、道を開けたのだった。
淀んだ地下の空気は、すでに冷え切って彼の頬を打つ。ベノルは奥へと急いだ。
「いいのよ、平気だから」
鈴のような、凛とした女性の声。
それは、ベノルの足を十字の角で止めさせた。
「平気なわけねぇだろ」
「そうだよ、姫さん。あんた、こんなとこまできて、気ぃ張らなくていいんだ」
男たちの声は、粗野ではあるが、愛する者への慈しみに満ちている。
ベノルはそっと、声のする左角の向こうをのぞいた。
「ほら、いいから受け取れ!」
男の声と共に、通路の左から右の牢へ、五枚の上着が飛んだ。
「いいってば。みんなだって寒いくせに!」
女の声と共に、今度は右から左へ上着が飛ぶ。
「姫さん、あんたなぁ……」
「俺たちは別に、あんたが女だからとか姫様だからとか、そんな理由でこんなことしてるんじゃないんだぜ」
ベノルは、会話の途切れるタイミングを計りながら、少しだけ身を乗り出した。
右側2つ奥の牢に、子供のように座り込んでいる女がいた。うつむいている顔には背中まである豊かな黒髪がかかり、表情はうかがえない。
次に聞こえてきたのは、か細い涙声であった。戦場では聞けなかった、弱々しい鈴の音。
「みんな、何言ってるのよ。おかしいわよ。だいたい、なぜ名乗り出てまで一緒に来たのよ。こんな惨めな目に合って。みんなには、家で待っている家族がいるじゃない。なのに、馬鹿よ」
「姫さん、それでいいんだ。泣けよ」
「そうそう。ほら、俺たちの上着、貸すから」
再び、上着が通路を飛ぶ。
「ほんとは、ぎゅって抱きしめてやりたいんだがなぁ」
「そうだな、そっちへ行けたら、肩でも抱いて、こう……」
「バカヤロウ! なんだそのいやらしいジェスチャーは」
鉄格子の隙間から上着をたぐり寄せ、女は強く抱きしめた。そして、男たちの冗談めいた会話に、顔を上げた。
ベノルは、息を呑んだ。
「ありがとう、みんな。大好きよ」
彼女は、美しい涙を惜しみなく流し、微笑んだ。
「ありがとう、ありがとう」
スリノアの英雄は、毛布を取り落とした。
そのことに、気づきすらしなかった。
全てのものが遠ざかる感覚。強烈に色づく、一人の美しい女性。
恋に落ちた、瞬間であった。