第一章 霧向こうの虚無 (4)
(4)
ベノル=ライトの指揮は、大陸一と名高い。
武においては、ワオフ族が上回っていたかもしれない。しかし、知の力は形勢を揺るがし、逆転への道をひらく。
開戦から一ヶ月、すでに戦は最終局面を迎えていた。ワオフの城は目前であり、相次ぐ勝利に湧くスリノア軍の前に立ちはだかる武将は、もはや、たった一人である。
グレン=ワオフ。
耳にしたことのない名であった。しかし、一切の情報をつかめぬまま、ベノルは戦地へと赴いた。
赤茶けた荒野の只中、五千の軍勢を背後に控え、ベノルはつぶやいた。
「これは、なんの冗談だ?」
彼と対峙するワオフ軍は、たったの百騎あまりだった。そして、その先頭に立つのは、予想だにしなかった姿の、グレン=ワオフであったのだ。
「あそこにいるのは、若い女性ではないか」
「団長!」
馬のひづめの音と共に、副指揮官がベノルの横へ並んだ。
「たった今、情報が。グレン=ワオフという人物は」
「女だった、と?」
「はい。遅すぎました、申し訳ありません」
「かまわん。続けろ」
「本名は、ダナ=ヴァルキリー=ワオフ。王族の娘です。幼少の頃から、男と同じように武芸を習い、秀でていたそうです。グレンとは、ワオフ族の伝承に出てくる武神の名で、その名を授かることを認められた勇士、ということでした」
ベノルは、苦々しく、その勇士を見つめた。
彼は、女が戦場へ出ることを良く思わなかった。女は常にその腕に愛を抱き、男の帰りを穏やかな笑顔で迎えるべきだ。その安らぎを守るために、男は奮闘するのではないか。そう思っていた。
「では、この兵の数は一体」
「申し訳ございません、そこまでは」
「わかった。直接、聞くとしよう」
長年ベノルのそばで戦をくぐりぬけてきた副指揮官は、唐突に馬を走らせたベノルを、黙して見送った。総指揮官が単騎で前へ出ることなど前代未聞であるため、軍の中からわずかな動揺が起こる。一体誰の心配をしているのやらと、副指揮官は笑い出したくなるのを堪えた。英雄の真の恐ろしさは、その指揮よりも彼自身の剣にあるというのに。
ワオフの敵将は、意思の強そうな黒い瞳を持つ女だった。遠目にも、まだ若いと判断できる。一騎のみで前へ出てきたベノルに対し、全く動じた様子を見せず、自らも馬を出した。
二人の武将は、互いの軍の狭間で対峙した。
ダナ=V=ワオフは、間近に見ると、なかなかの美女であった。年は20代半ばか。質のよさそうな皮の鎧から出る手足や兜の下の小顔に、ワオフ族の特徴である褐色肌を見ることができた。堂々と落ち着いた振る舞いから、何度か武将として戦を重ねていると伺える。
戦場とは思えぬ静寂の中、ベノルは馬から降り、恭しく礼をした。
「お初にお目にかかります、ヴァルキリー姫。私はスリノア騎士団長、ベノル=ライトと申す者でございます」
敵将は、長身のベノルよりもさらに高い馬上から、嘲笑をあびせた。
「英雄と名高い貴公も、私を女と知ると戦意をなくされるようですな」
鈴のように澄んだ声。もったいないことだ、とベノルは嘆かわしくなる。この声と美貌で淑やかにドレスでも着ていれば、引く手数多であろうに、と。
「おっしゃるとおりです」
彼は紳士的に笑んで、余裕を見せた。
「女性に剣を向けることは、騎士道に反します故」
「貴公がそのような戯言を言う間に、何百と貴公の兵を斬ってみせようか。そうすれば、二度とその口から、こざかしい『騎士道』などという言葉をきくこともありますまい」
ベノルは微笑したまま、父から受け継いだ緑の瞳をギラリと光らせた。
「それで私を挑発されているおつもりですか。武神の名を授かる女性と聞きましたが、期待したほどの武将ではございませんな」
侮辱に瞳を燃やす、ワオフの姫。
ベノルは彼女が口を開く前に、笑みを消して彼女を冷酷に見据えた。一瞬、気圧されたように、彼女の怒りの炎が揺らぐ。そこへ畳み掛けるように、ベノルは言い募った。
「姫、私がこうして進み出てきたのは、ワオフの兵の少なさを問うためです。まさか、この数で私の軍と剣を交えようなどと、お考えではございませんね?」
「当然だ。どこまで人を馬鹿にされるおつもりか」
調子を取り戻したように、ワオフの姫は澄まして告げた。
「一騎打ちを申し出る」
一騎打ちとは、この大陸の中央部に太古より伝わる戦の習わしである。軍の大将同士が合意したときのみ成立するもので、その名の通り、大将同士が一騎打ちを行う。大将の敗北は、軍の敗北である。敗退軍に属する者は、その場で自害するか、捕虜となるかを選択する。
多くの場合、一騎打ちはどちらかの軍が極度に劣勢の場合に持ちかけられるため、成立することの方が珍しかった。が、歴史に残る劇的な勝敗の行方を左右したのは、この一騎打ちによるものが少なくない。劣勢を覆そうと前へ出る大将の姿、自軍を慈しみ守ろうとする大将の姿、そして、優勢にも関わらず相手に敬意を評してそれを承諾し、命のやり取りをする大将の姿は、人の心をつかんでやまず、書物に記されるからであろう。
ベノルはその申し出を受け、「ほぅ」と品のある口元を不敵につり上げた。
「この私と、一騎打ちを?」
「貴公は何も知らぬようだな」
ワオフの姫は、不気味なほどに淡々と語った。
「我らを利用するだけ利用し、スリノアの残党どもは我らの王を殺し、逃亡を図った。四日前のことだ」
ベノルは息を呑んで見上げた。
「まさか……」
「我らは誇りをもって戦い、奴らを根絶やしにした。しかし、次は貴公の軍がせまってくる。私は精兵に王子を任せ、一旦退くように指示した。その時間を、こうして稼いでいるというわけだ」
ベノルは、己の浅はかさを悔いた。この結末を、事前に可能性として挙げられなかったものか。ワオフの王はおそらく、噂通りの賢王であったのだ。だからこその、この結末であろう。
「姫、我々はワオフを侵略しに来たのではありません」
ベノルは真摯に訴えた。
「大臣派の残党が消えた今、この戦いは無意味です。恐れながら、申し上げます。すぐに剣を収め、引き返し、王子を保護なさいませ」
「ワオフにとって、スリノアは敵だ。敵に背を向けることはできぬ」
「姫、申し上げます! あなたは私に勝つことができません」
「承知の上だ」
女武将は、どこまでも淡々と述べた。そして、馬上で鞘を払う。死に急ぐかのように。
「さあ、スリノアの英雄ベノル=ライト。馬に乗り剣を抜け。女だからとて、手を抜かずにいただきたい。あなたも武将ならば、わかっておられるはずだ」
ベノルには、もはや返す言葉がなかった。
剣を高く掲げ、一騎打ちの合図を出すと、スリノアの五千の軍勢から歓声が上がる。
それは、まもなく、勝利の熱狂へと変わった。
ベノルには、女の首を落とすことができなかった。
騎士道に反することへの抵抗もあったが、それよりも気になることがあった。彼女の背後に控えていた百騎あまりの軍勢が、ただただ静かに一騎打ちを見守っていたことである。まるで、女武将の最期を見届けようとしているかのように。そこに感じられたのは、敬意と、悲しみ、労わりであった。
ただの王族の姫ではないかもしれぬ。根拠のない直感は、しかし外れたことはない。ベノルは女を生かして捕らえ、百騎の静かな戦士達から武器を奪い、捕虜とした。勇猛なワオフの軍とは思えぬほど、彼らは不気味に殊勝であった。しかし、その口は堅く閉ざされ、スリノア側の質問には頑なに答えようとせぬのだった。
スリノア軍はそのまま、破壊行為をするまでもなく、ワオフの街と城へ入った。
部下にワオフの城下を調査をさせる間に、ベノルは王の指示を仰いだ。数日後、彼は五人のワオフ兵と共に姫を捕虜とし、スリノアへ連れることとなったのだった。
大臣派全員の死が確認され、軍が凱旋したその日に、スリノア王都では終戦記念の祭りが催された。スリノア城へと続く大通りを闊歩する英雄と騎士団。それを一目見ようと、多くの国民が通りの脇へ詰め掛けた。大歓声と黄色い声に包まれながら、ベノル=ライトは不敵な笑みを振りまく。国の英雄は、揺るぎなく民衆の拠り所であらねばならない。事実、ベノルは確かに才ある騎士であったが、それ以上に噂が一人歩きし、周辺への抑止力となっている感があった。せっかくの好都合である、保つに越したことはない。
「ご苦労であった」
王宮の謁見の間では、少年王が還ったベノルをねぎらった。
「今日明日と、ゆっくり休むといい」
言って、ニヤリと笑う。今夜、早速遊びに来られるおつもりか、と、ベノルは胸中で苦笑した。
「皆の者!」
王はその瞬間には笑みを消し、玉座から威厳をもって立ち上がった。
「スリノアに、平和が戻った。長い戦が、終わったのだ!」
街と同様、王宮は大歓声に包まれた。
勝利の美酒に酔いしれる人々。
その中で、英雄は一人、はるか遠くを見つめていた。
長い戦の果ては、濃い霧に包まれていたはずであった。が、今まさに、その霧が綺麗に晴れてしまったのである。
そら恐ろしいほどに全てが鮮明となり、追い求めていたものの正体が否応なしに、彼の眼前へ突きつけられた。それは、彼の胸へ不快な何かを落とす。彼はひどく困惑し、思いつめた。同じ問答を幾度となく胸中で繰り返すも、答えは出ない。それでも、彼は繰り返す。
戦が、終わった。
終わったのは……戦だけなのだろうか。
第二章へ続く