第一章 霧向こうの虚無 (2)
(2)
ワオフ族との対立は、スリノア建国その時から、すでに始まっていた。
現在のスリノア領の南寄り中央、湖と土の豊かな地域の原住民が、彼ら、ワオフ族である。やや褐色の肌に黒髪と、色素の濃い人種がほとんどだ。
彼らは南の山麓地方に由緒をもつ民族で、狩猟に重きを置いてきた経緯もあり、好戦的で勇猛な気質が継がれている。彼らが山を下りて一転、平野へ移り住んだ理由は明らかでないが、肥沃な土地を充分に活かすような農地開発ができていたとは考えにくい。それを、北の痩せた土地から指をくわえて見ているだけであったのが、スリノアの祖たちである。その中に、野心に燃えた果敢な青年が現れた。言わずと知れた、現スリノア王国の建国王である。
当時点在していた個々の勢力を打倒、吸収するうち、建国王はワオフ族を最後の最後まで据え置いた。最も欲しい土地であったにも関わらず最優先できなかったのは、建国王がワオフの勇猛さを知ったうえでの苦渋の選択であったと考えられる。周到に準備を進めたうえでの決戦であったが、やはり優れた戦士の多いワオフ族は建国王を苦しめた。が、長い戦の末、ワオフ族はついに、スリノア軍の前に屈した。
建国王は彼らの蜂起を、過剰なまでに恐れた。武器を奪い、彼らのよく知る南の山麓ではなく荒れた西方へ追いやった上、様々な拘束を加えた。対し、ワオフ族は自由を求めて何度も立ち上がり、歴代のスリノア王たちをおびやかした。
泥沼の因縁は断ち切られる気色もなく、そうして、百数十年の時が流れている。
「彼らに国民権を与えるというのは……」
議会に出席している国民代表の一人は、そう言葉を濁した。
スリノア国民議会では、国民代表と貴族代表が半数ずつ選出され、王に直接意見することが許されている。王は政治の長であり、全ての決定権を持つが、議会を敵に回し続けることは己の足場を崩しかねない危険な行為である。議員たちはこの場を利用し、国民の声や暮らしの実情を訴え、あるいは貴族社会の保身を図る。王は議員たちの意を汲みつつ、反感を買わぬ程度に国の方針を決断してゆく。このバランスを保つことこそが、王の最大の義務とも言えた。
今日の議会は、いつにも増してその手腕が問われそうである。王座より二段下がった位置に並べられた識者席に座するベノル=ライトは、多くの場合と同じように、黙って議決の行方を見守っていた。
国民代表たちは巧みに言葉を濁しているが、要するに、生活の中に長年の宿敵が入り込んでくること対し、国民の大半が不快感を露わにしていると言いたいのだ。もともと農耕に重きを置いており、略奪に走るほど貧困に悩まされていなかったスリノア民族は、穏やかで温厚な気質が強い。建国王の下で圧倒的な勝利をおさめ、肥沃な土地で繁栄を誇るうちに、どこか民族至上主義へ傾き、周辺国を蔑むような、鼻持ちならない気取りも身についてしまったようだ。ワオフ族を「野蛮」「下品」と遠巻きに罵る傾向が、その嘆かわしいプライドを物語る最たるものだった。
国民も貴族も、王の機嫌を損ねるに違いないその感情をひた隠し、もっともらしい理由を並べ立てて抵抗する。むしろ、彼らどこか、この機会にワオフ族を完全に滅ぼすことでスリノアの権威を知らしめ、英雄ベノル=ライトに新たな武勇が加わることを、期待しているようにも感じられた。
「国民権を与えることで、年間収入の5%が減少します」
「ワオフにほど近いルーセント領から、陳情が届いております」
議場の王座で頬杖をつき、半眼で議会を見下ろしていた少年王は、ようやく口を開いた。
「おまえたち。もう一度、議題を見ろ」
代表たちは、そろって、けげんそうに眉を寄せた。この奔放な少年が、次に何を言い出すか。狭い議会の風習を当然と守り続ける議員たちにとって、多くの場合は喜ばしくない提案や発言が飛び出すと相場が決まっていた。そして、多くの場合は正論を突きつけられ、納得せざるを得なくなる。
しばしの緊張した沈黙ののち、貴族代表が応えた。
「はぁ。ですから、国民権を……」
「誰が彼らに国民権を与えるなどという話をしたのだ」
議員たちは黙するしかない。確かに、議題は「ワオフ族に国民権を与えるかどうか」ではなく、「クーデター勢力の残党と結託したワオフ族を、どう退けるか」である。少年王が「ワオフと和平を図ればよい」などと言うものだから、混乱のうちに話が飛躍した。
「では、話を戻す」
王は有無を言わせぬ声で、議会を導いた。散々の回り道は、議会の求める本音を探るために他ならなかった。
「我々が直面している問題は、どうワオフとの衝突を避け、平和なスリノアを手にいれるか、である。そのために、ワオフとの和平を提案したまでだ」
王は、貴族代表の一人を指し、尋ねた。
「例えば、おまえ。長年に渡り自分を苦しめ続けてきた国から、『国民権を与える』と言われ、嬉しいか」
「それは……」
「彼らに領土を与え、自治権を戻す。それで済むことではないか」
少年は、一国の当主の顔で言い切った。しかし、議会には重い沈黙が降りる。
差別を忌み嫌いながらも、人間はそれなしには生きていけないようだ、とベノルは思う。
一昔に比べて国民の生活水準が上がったとはいえ、王や貴族とは、もちろん、別の扱いである。しかし、国民はその差別を受け入れる。自分たちが飢え苦しむことがなければ。そして、自分たちよりも下の、哀れな者たちが存在するならば。
「なんだ。気に食わぬという顔だな」
王の皮肉った笑みに、代表たちがあわてふためいた。「何かあるなら申してみよ」と許され、国家の利害や尊厳を説くが、感情を正当化するための支離滅裂な後付論理は王をますます不愉快にさせ、「黙れ」と一蹴されてしまう。
ベノルは苦笑をかみ殺した。申せと命じておき、黙れとは。
「確かに財政は思わしくないが、打開案ならば、すでにこの議会を通ったものがいくつもある。それらはまもなく軌道に乗り、間違いなく潤いをもたらす。5%がなんだ。奴隷扱いの者がおらねば成立せぬような国ならば、いっそ滅んでしまえ」
代表たちは心底呆れた。一国を背負う長の発言とは、とうてい考えられなかった。しかし、王の意見を否定するための決定的なカードを、誰一人持たぬのもまた事実であった。
「ライト様のご意見は、いかがなものでしょう」
彼らは、英雄ベノル=ライトが、分別ある言葉で少年王をたしなめることを期待した。
ベノルは、見事に裏切った。
「私は、王に忠誠を誓った騎士ですから。王の意に従います」
1年前の首都奪還時、一部の国民から、英雄王の誕生を呼ぶ声が上がった。
ライト家を王朝に、英雄ベノル=ライトを王に。
それを知った時のベノルの表情が、今、代表たちの脳裏によみがえる。英雄は、怒気と失望をはらんだ声で、民衆へこう訴えたのだ。
「私は騎士である。王になった先、誰に忠誠を誓えというのか」
歴史に残るであろうこの言葉を、ベノルが今も胸に熱く秘めているのだと、誰もが知ったのだった。