第五章 埋まらぬ喪失 (4)
(4)
ベノルは副指揮官に軍を預け、捕虜と共に一足早く、王都へ帰還した。
そして、彼は今、夕刻のスリノア王宮で息を切らせている。謁見した彼に、王が告げたのである。「ワオフの王女はまだ、スリノアに残してある。最後の別れを惜しんでこい」と。
会えば心が揺らぐと知りながら、ベノルは彼女の姿を求め、王宮内を走り回らずにはいられなかった。
ダナは、意外な場所にいた。
美しい王宮の庭で、うつろに立ち、花を眺めていた。
大理石の白と、生き生きとした草木の緑。花々の赤、黄、紫。夕日を受け橙に輝く噴水が、せせらぎを奏でている。
暮れゆく中、スリノアの静けさは、ただただ心地よく、そら恐ろしいほどに平和であった。
「ダナ」
ベノルは一定の距離をとったまま、妻であった褐色肌の女に、呼びかける。
質素なドレスに包まれた身が、ふと、感情を取り戻したかのように硬くなった。が、やはり表情は無く、彼女はかつての夫へ向き直る気配を見せなかった。
ベノルはその横顔を見つめながら、己に言い聞かせた。これが最後なのだ、と。所詮は姑息な縁結びであったのだ。その結末を、どう迎えるべきであろう。
彼は、言葉を探した。多くの問いが、浮かんでは消えていく。
私と離れたならば、君は救われるのか。
他の誰かならば、私にできぬ方法で、君の笑顔を取り戻せるのか。
君の本当の望みは、本当の心は、どこにあるのか。
全ては、間違いだったのか。
そのどれもが、彼の胸を割るほどに外へ出たがっている。しかし、彼は押し殺す。無意味なのだ。答えられるはずのないことへの問いかけなど、自己満足にすぎない。
「戦の結果は、聞いたか?」
長い沈黙の後の、静かな問い。やはりダナは応えない。いつものことであった。
「ワオフはスリノアの支配下に入った。だが、民族の尊厳を無視して圧政を敷くことはない。国としての体制を整えながら、新たな指導者の下、ワオフは再建されるであろう」
国の行く末。駆け引き。思えば、こうした話ばかりであった。
「ダナ。もはやワオフの正統な後継者は、おまえだけだ。民衆は、グレン=ワオフの帰りを待ち望んでいる」
それ以上、ベノルから言うことはなかった。
日が暮れていく。景色が、ダナが、徐々に薄闇に飲まれていく。
鮮やかな色が消えていくのを、ベノルは歯がゆい想いで眺めた。
なす術など、あるはずがない。それなのに、どうにかしたいと願い、どうにもできないこの身を呪いたくなるのは、なぜなのだろう。
「私の居場所を作ってやったとでも言いたげね」
突然、ダナが言った。
顔こそ無表情であるが、声には力がある。今までとは違う、憎しみではない別の力が。
「馬鹿なことを言わないでよ」
ドレスがひるがえる。彼女は全身で鋭く、ベノルへ向き直った。
まるで母の姿を捜し求める迷い子が、恐れや不安に潰されぬよう、必死で耐えるかのような。彼女の歪んだ顔が物語る感情は、憎悪の下でひた隠しにされていたそれであった。
「誰が王位なんて望んだのよ」
黒い瞳が、涙に大きく揺れる。震える口元が、とげとげしい女の口調で悲愴な叫びを吐き出した。
「あなた、わかってるんでしょう。わかってるくせに! 私には、もう故郷なんてないのよ。もう二度と、戻ってこないのよ。スリノアが、あなたが奪ったから!」
自らの痩身を抱き、ダナは泣き叫んだ。わずかに残った斜陽が、まるで哀れむかのように彼女に降りそそいでいた。
「私の故郷は、もうどこにもないのよ!!」
その言葉に、気が遠くなった。
圧倒的な、目を背けられない絶望。故郷はもう、どこにもない。あるのは虚無のみ。何を引き換えにしようとも、揺るぎなく突きつけられるそれは、埋めることの叶わぬ、喪失。
彼女が持つ色彩へ堕ちたときの、愚かな欲望を彼は思い返す。己がものにするか、果て無き絶望を迎えるか。
彼はようやく理解した。
彼女は、己がものになど、なるはずがなかったのだ。
ベノル=ライトは、腰に下げていた剣を抜き、自身の胸を刺し貫いた。
ダナ=ヴァルキリー=ワオフは、あれほどまでに憎んだ男の崩壊を、身じろぎもせずにただ眺めた。
ついに微笑み合うことのないまま、二人は、離れた。
終章へ続く