第五章 埋まらぬ喪失 (1)
第五章
(1)
ワオフ女王国が、軍備に力を入れている。
情報を受けたスリノアで、議会が召集された。和議が持たれてから、わずか一ヶ月あまりのことである。
「一体、ワオフで何が起きている」
少年王は、つぶやくように困惑を示した。断片的な情報をもとに仮説を立てようとしても、どうにもうまくいかない。
「女王も王子も、何を望んでいるのか」
「陛下。ともかく、彼らは武に重きを置く部族です」
貴族代表が発言し、うまくいかぬパズルを更にひっくり返す。
「ここはやはり武において、スリノアの権威を知らしめ、従わせるのが得策かと」
王はしばし思案にふけり、言った。
「向こうの考えが読めぬうちに、過剰反応は良くない。他の目的で軍備を強化しているだけやもしれん。しかし、不穏な動きであることは否めないな」
騎士団長には戦の備えが、宰相には、情報収集が命ぜられた。
議会終了後、一人の初老の男がベノルを呼び止めた。
「ベノル殿、こちらへ」
宰相に任命されて間もない、有力貴族グリンベル家の当主は、ベノルを言葉少なに王宮の自室へと招いた。
彼がベノルをファーストネームで呼ぶのには、訳がある。彼の世代の貴族たちは、ベノルの父と交流が深く、「ライト」といえばベノルの父のことを指すと感じるようなのだ。クーデターが起こる前の社交場では、ベノルの父が「ライト殿」、その息子であるベノルは「ベノル殿」と呼び分けられていたものだった。帰還後、正式に当主となったベノルであるが、呼び名を訂しようと試みたことは一度もない。父の影響力の強さ、父の存在を感じられる呼び名は、誇りですらあった。
宰相は、ベノルの向かいの応接椅子にかけると、辟易した様子でため息をついた。
「私には、何が起きているのか、さっぱりわかりません」
戦も、飢えも知らぬ貴族の男は、ただ嘆いた。
「王はまるで、皆に知られぬような形で、ご乱心なさっておられるかのようなのです」
ベノルは応接椅子に浅く腰掛けたまま、「私が原因です」とうなだれた。が、胸の内では「勘弁してくれ」と叫んでいた。
気が狂いそうだ、などと言っていられるうちは、まだいい。あの時、アニタの制止の声が入らなければ、彼はナイフを振り下ろしていただろう。妻の細い首めがけて。
自身が信じられなければ、全てが恐ろしい。一体、明日には、彼の未来には、どのような結末が腕を広げて待ち受けているのだろうか。ベノルは刻みゆく時全てに対し、神経質になっていた。これ以上他に、精神を削ぎたくはなかった。
「原因、とは?」
宰相が、すがるように問う。
「私が……」
ベノルは告白を飲み込み、入り口へ視点を移した。
半開きにされた扉の向こう、少年王が無表情に佇んでいた。
「陛下!」
宰相が見とめ、蒼白になる。はじかれたように立ち上がったが、しかし、生気を抜かれたような声で問うた。
「いつから、そこへ」
「宰相よ。おまえは全く理解していないようであるな」
王は、堂々と部屋へ足を踏み入れ、皮肉っぽく微笑した。
「私は、そこにいる騎士団長の荷を軽くしてやろうと、おまえを宰相としたのだ。そのおまえが、彼に相談を持ちかけてどうする」
宰相は、ベノルに視線を送った。
目で小さくうなずくベノル。宰相は不安げに、王へと向き直った。
「陛下。私は、今まで通りベノル殿に陛下の補佐を任せた方が、よろしいかと存じます。彼ほど優秀な補佐役も、そして、陛下と心の通じる人物も、他におられませんでしょう」
少年王は、今度は困ったように微笑した。
「それはもっともであるが、私は彼に頼りすぎていたところが大きい。私だけではない、スリノア全体が、英雄に頼りきっている。私は彼が大切ゆえ、これ以上の苦労をかけたくはないのだ。見ろ、その憔悴ぶりを」
穏やかに、王は全くの正論を述べる。
「ワオフ族と未だ壁があることは否めず、妻との間にも苦労があろう。我々は、スリノア奪還と再建に尽くしてくれた彼に、休息という名の恩返しをすべきだ。そうは思わぬか?」
誰もが、同意せざるを得なかった。
気に入らぬ者を、遠ざけようとしているだけだというのに。
少年は賢く、そしてまた状況が状況であった。
宰相が、声もなく立ち尽くす。王が満足げに微笑み、大人びた足取りで部屋を出て行く。
ベノルは、ただ、無気力に身をゆだねた。
王たる資質を秘めようとも、彼はまだ十五の少年である。支えてやらねばならなかった。しかし、ベノルはダナを選んだ。選んでしまった。
この崩壊の原因は、そこにある。
周囲の者には、王が慧眼と映るに違いなかった。
事実、そうであったかもしれない。
ベノル=ライトが、誰も知り得ぬところで闇を抱え、罪を犯していると、気づいていたならば。
ベノルはその夜、寝室で酒をあおった。
もう何年も口にしていなかったアルコールは、彼の意識を15年前へといざなった。
父の目を盗み、かすめとったウィスキー。
湖畔で親友と初めて覚えた、酒の味。
少年の頃の、国の未来を描く会話は、疑いようもなく希望に満ちていた。今は亡き親友の輝く瞳は、同じくベノルのものでもあった。
心地よい夜風。降るような星空。朝日に照り輝く湖。眩しい深緑と抜けるような青。
なぜ、戻って来なかったのだろう。
戦ったのに。あれほど、戦ったのに。
「旦那様」
揺り起こされた。ベノルは、己が机に伏していたことに気づいた。
脇を見ると、アニタが微笑んでいる。扉を開け放したままだったらしい。
「こんなところで寝ては、風邪をひいてしまわれますよ」
ベノルは低くうなり、立ち上がった。アニタの方へとよろめく。そのまま、彼は衝動的に、女を抱きしめた。
狼狽に、アニタが身を硬くした。ベノルは熱に浮かされた気分で、そのぬくもりを逃さぬと強く抱く。そして、彼女の名を耳にささやいた。そうすると、女は彼に身を委ねるのが常であった。
アニタも、例に違わぬ女であった。彼女は力を抜き、うっとりと彼の名を呼んだ。
「ベノル様……」
ベノルは女の黒髪に吐息を滑らせ、目を閉じた。
暗闇が広がる。絶望的なまでの、無限の闇。
その中に、強烈な色彩があった。
それは美しい女の形で、佇んでいる。
つやのある黒髪。細い肩。頼りない背中。震えている拳。
ベノルは彼女に、嘆きを見る。行きどころのない、怒りと悲しみを。押し寄せる、悔恨とむなしさを。
そして、夢見たのだ。
彼女を様々なものから解き放ち、愛し合いたい、と。
「……ダナ」
愛する女の名を、彼は口にした。
はっと、腕を解く。中にいたのは、違う女であった。
己の失態に、思わず息を呑む。アニタの傷ついた顔が、更に追い討ちをかけた。かける言葉が、何一つ見つからない。
「あ、あの」
アニタは、無理に笑顔を作った。が、瞳に涙が浮かぶ。彼女はあわててベノルに背を向け、必死に手の甲で涙をぬぐった。
「今日も姫様は、お食事をほとんど口にされず、話し掛けてもうわの空でした。あの夜から、ずっとでして、お体は」
「アニタ」
呼びかけはしたが、ベノルはそれ以上、何もできない。
「……失礼します」
涙声を残し、彼女は、そのまま部屋を去った。
ベノルはただ、うなだれる。
もはや、全てが失策なのであった。