第四章 名声を捨ててでも (3)
(3)
この三日間、スリノア円形闘技場は、歓声に沸いていた。
最終日まで残った五名の戦士は、いずれも飛び抜けた強豪たちである。
そのうちの一人であるベノル=ライトは、南隣国メルーの代表に辛くも勝利した後、面識のある男との対戦に臨んだ。砂漠の国サイスが派遣した、傭兵である。
この傷だらけの大柄な傭兵とは、スリノアを追われてサイスへ落ち延びた頃に、深い付き合いがあった。戦力として心強いことはもちろんであったが、陽気な彼は、故郷を想って沈みがちだった王子や騎士たちを、よく笑わせた。ベノル自身も、この男に救われたところが大きい。自然と笑いを呼ぶ才は、ベノルに欠けているものだった。
「久しぶりだな、ベノル。今じゃ、騎士団長というより、英雄さまさまだな」
試合開始の直前、観客の熱い視線とざわめきの中、傭兵は不敵に笑んだ。
「ボウズは元気か?」
「あそこにおられる」
遠く王族の専用席を目で示すと、傭兵は豪快に笑った。
「こりゃ失礼! もう立派な王様だったか」
ベノルは、曖昧に苦笑した。
そのとたん、傭兵が眉をひそめ、視線を鋭くする。ベノルの背を、冷たいものが走った。
試合開始のベルが、鳴り響く。
焦りが出たか、それと同時に、ベノルが攻撃を仕掛けた。しかし、無駄なあがきであった。傭兵は何の芸もなく受け止め、彼を睨んだ。
「なにやってんだ」
怒気を殺した、低い、うなりのような声だった。
「そんな体で出てくるんじゃねぇ!」
傭兵は剣を捨て、前のめりになったベノルの首裏に手刀を入れた。正確には、入れたふりをした。ベノルは素直に、気を失ったふりをした。
「俺の勝ちだ」
傭兵は審判に言い残し、ベノルの体躯を軽々と担ぎ上げて場内を後にした。
「観客たち、シラケてたなあ」
ベノルを医務室の寝台へ放り投げ、傭兵は苦笑した。察しのいいこの男は、すでに医師や看護婦を追い出している。
「次は、ちゃんとした試合見せねぇと。冗談だろ、相手は大国シン騎士団の総隊長さまだぜ!」
「すまない」
なんとか仰向けになったベノルは、短く謝罪した。傭兵は、「完璧男のおまえさんでも、謝るようなことがあるんだな」と笑い、乱暴にベノルの服を剥いだ。ぎっちりと巻かれているにも関わらず真紅に染まった包帯を見て、さすがに唖然とする。
「こりゃまた。よく涼しい顔でいられたもんだ」
傭兵が包帯目当てに辺りを見回した時、数人の近衛騎士を従えた少年王が駆け込んできた。
「おお、ボウズ。でかくなったな」
明るい挨拶に応えることもなく、王は怒鳴り散らした。
「ベノル、これは一体どういうことだ!」
傭兵も騎士たちも、この錯乱したような少年の剣幕に絶句した。
「一体、どういうつもりだ!」
「……おいおい、王様よ。こいつはこの怪我でここまで勝ち抜いてきたんだぜ。そんなふうに言うのは」
「黙れっ!」
叩きつけるように命じられ、傭兵は「おお、怖い」と肩をすくめた。おどけたようなその反応にも目をくれず、少年は矛先をスリノアの英雄へと戻す。
「説明しろ、ベノル!」
ベノルは、目を閉じてしまった。眠ってしまえたら、どんなに楽であろうか。そんなことを考えた。
「ベノル!!」
王は、ベノルが応えぬを察すると、そばにあった台を蹴った。その上に飾られていた花瓶が落ち、花と共に離散した。
「戻るぞ。次の試合が始まる」
王は低く言い、医務室を出て行った。騎士たちはベノルを気にかけながら、王を追った。
「ボウズ、あんな癇癪持ちだったか?」
傭兵は呆然と見送り、幼子であったスリノア王を懐古するように語った。
「プライド高くて、それをからかうと事あるごとに可愛く噛み付いてきてたイメージはあるけどなあ」
痛みに呻くベノルなどお構いなしに、傭兵は古い包帯を剥ぎ取りながら続ける。
「でも、こんな瑣末なことに目くじら立てる王様になるような感じでは、なかったぜ。育て方間違えたんじゃないか?」
最後の言葉はベノルにとって、本来であれば許すことのできぬ発言であった。しかし、この傭兵には頭が上がらぬところがある上に、彼の歯に衣着せぬ物言いは、怒りよりも弱音を呼ぶのだった。ついつい、ベノルは愚痴をこぼした。
「ここ最近、陛下は私の為すこと全てが、お気に召されぬようなのだ」
「はーん。反抗期か?」
あっけからんとした問いに、思わず口元がゆるむ。この男といる時くらい、何も気にせず笑っていたかったが、今はそれすらもかなわなかった。
そんなベノルの心中を察してか、傭兵は答えを求めず、粗雑な手つきで止血を施した。
「なんにしろ、おまえらが仲違いしてたんじゃ、スリノアもちょっと心配だな。せっかく、ボロ雑巾みたいになってた、いけ好かないおまえらを助けてやったってのに」
「その節は」
「水くさいこと言うなよ、面倒だから。調子に乗ってたあの頃の俺には、いい薬だった。まさかまだ21の、お高くとまった若造に負けるなんて思いもしなかったもんな。また久しぶりにおまえとやれるっていうんで、今日はけっこう楽しみにしてたんだぜ」
ベノルが顔を背けるより早く、傭兵は止血措置を終えたその手でベノルの胸ぐらをつかんだ。圧倒的な力でぐいと引き寄せられ、ベノルは狼狽のまま瞳をのぞきこまれる。
「で、おまえさんは、なんでこんな重傷を黙ってたんだ?」
鋭い問いかけ。勘のいいこの男から、うまく逃れることは難しい。
ベノルは先ほどと同じく、目を閉じて強引に拒絶した。
今は、もう、何も考えたくなかった。
武術会から帰ったベノルを、アニタが出迎えた。
「お帰りなさいませ。お怪我の具合は、いかがですか?」
不安げに自分を見上げる彼女を、この女こそ妻のようだ、とベノルは思った。
女は男の帰りをあたたかく迎え、男はその安らぎを守るために、奮闘する。
「……ただいま、アニタ」
意味深な間の後、ベノルはそう言って微笑みかけた。
アニタは、耳を赤く染めて、戸惑った。
「旦那様?」
うぶなその様子が、愛しく思えた。
「試合で傷が開いた。乱暴に処置をされたままで、苦しいよ」
アニタは「大変」と、奥の部屋へととんで行った。
ベノルは彼女の後ろ姿を、目を細めて見送った。紺色のメイドスカートが揺れるのをながめ、ふと、彼女に明るい色のドレスを着せたくなった。
よく似合うであろうな、と思う。彼の顔が、自然と綻んだ。
その時。
彼の後ろで、人の動く気配がした。
ベノルはひやりとした。振り返る気には、全くなれなかった。そういえば、帰宅時からダナの部屋の扉が半開きの状態であったことを、彼は思い出した。
「帰ったぞ、ダナ」
忍ぶように近づいてくる妻の手に、何が握られているか。容易に思い描けた。
「おまえは、夫の帰りを笑顔で出迎えることすらできんのか」
ベノルは体を反転させ、繰り出されたナイフの柄をつかみ、止めた。
意図せず、二人は間近で真っ向から視線をぶつけ合う格好となった。
女の黒瞳は負の感情に燃え上がり、彼を射抜いている。ダナは、以前にも増して、彼を憎んでいるように見えた。
暗い、底知れぬ憎悪。血塗られた鈴が、床へ落とされたように短く激しく鳴った。
「死ね」
ベノルの中で、何かがうごめいた。
憎悪に飲まれたか、憎悪を引き出されたか。
一瞬のち、ベノルは奪ったナイフを振り上げていた。
第五章へ続く